遠い回線
昼食の後片付けをして、ふと時計を見る。
―そろそろ1時。
初代は電話の子機を手に持つと短縮ダイヤルのボタンを押した。4回ほどの呼出音の後、
「はい、もしもし」
少ししわがれた声が聞こえてきた。
「もしもし、お義母さん。私です」
「ああ、うん」
毎日欠かさずかけている電話。特に喜んでくれる様子もない。でも何か話してもらわなくては。楽しい気持ちになってもらいたいのだ。
「ちょっと声の調子がおかしいのじゃない? 体は大丈夫なんですか?」
「うーん、さっき買い物に出かけたら喉がねぇ…」
「あら、いけないわ。お薬送りましょうか? お義母さん、いつも無理しちゃうもの。こじらせないうちに早く治さなくちゃ」
初代の声音から心配されていることを察したのだろう。それを機に義母は、他愛もないことをぽつぽつと話し出した。初代はほっとすると、目ではテレビの画面を追い始めた…。
義母と初代の夫である真人は、あまり折り合いが良くない。長男に愛情を傾ける性質であったらしく、次男の夫はあまり構われなかったようだ。そのくせ真人が初代との結婚を切り出した時は散々嫌味を言ってきた。「なんか暗そうな人だね。愛想笑いの1つも出来やしないのかい」
「こんな田舎の人間に街育ちのお嬢さんがやっていけるんかね」
「みてごらん、そのきれいな手。苦労も何も知らんのだろう」
長女である初代は、それなりに努力して高校卒業後就職し実家には少なくはない金を入れていた。何も知らないくせに言いたいことを言われて、帰り道ではポロポロ涙がこぼれた。しかし真人は自分の味方だった。結婚するまで耐えてくれ、その後はめったにあの家には行くつもりないから…と、なだめるように言ってくれた。その後も式までは相変わらずだったが、真人の言葉を信じて何とか堪えた。
結婚後は本当に真人の実家には寄り付かなかった。仏事があるときにはやむを得なかったが、おおむね年に1度の数時間くらいなら我慢はできた。そしてそんな席では当然いろんな話が耳に入ってくる。
真人の長兄も末妹もまったく実家には行かない…と聞いたのは、去年の義父の十七回忌でのことだった。
「だってうっとおしいよ。面倒見始めたら介護に追われるだろ。それにあの人可愛げないし。俺の嫁ともうまくいってないしな。お前はいいよな、家も遠いからさ」
「兄貴がそういうこと言うとはね。あれだけ大事に育てられてきたってのに」
「そう嫌味を言うなよ。親父が死んでからは、期待が重苦しかったって。かえって無視されてる方が気楽だったさ。それにな、俺はまだマトモだよ。律子なんかもっと前から愛想尽かしてるしな。末っ子で女ってのはうらやましいよ。自分の実家がどうなろうがお構いなしなんだもんな」
その後も延々と続く義兄の愚痴。最初は聞くともなしに聞いていた初代だったが、次第に息をつめて耳を澄ましていた。初代の様子がおかしいことに気づいたのか、真人は心配そうに声をかけてきた。
「おい、大丈夫か?」
「ええ、平気よ。お義兄さん、お義母さんの姿がさっきから見えないみたいだけど、どこか悪いんですか?」
「ん? ちょっと心臓が不安定なんだと。俺だって心配してないわけじゃないんだぜ。でも、だからって同居なんて話が出たらたまらんからな」
「いえ、責めたりなんてしません。でも…そうですか…」
初代を気遣って、真人は義兄との話を切り上げ車に乗り込んだ。家路への道すがら、初代はポツリとつぶやいた。
「あなた。私ね、これからなるべくお義母さんに電話しようと思うのよ」
「だってお前…」
「心臓が悪いって話なんでしょ? それなのにこんな状態が続いていいとは思えないの。家が離れてるから様子を見には行けないけれど、自分でできることはしたいのよ」
「お前はそれでいいのか? 辛くないのか?」
「ええ、負担になるようなことはできないと思うけど。自分に手が届く範囲で行動を起こしてみるわ。それならいいかしら?」
「ああ。すまんな。結局お前に迷惑かける」
真人は申し訳なさそうに頭を下げる。その様子を見て夫の優しさを微笑ましく思った。
それから1年余。初代は本当に毎日、電話をかけ続けている。最初の頃は訳も分からず不機嫌さを隠さなかった義母だったが、時が経つにつれ態度は軟化してきた。今では1時の電話が多少待ち遠しくさえあるようだ。もっとも嬉しい感情を隠そうとしているのは明らかだったが。
―そう、お義母さんに喜んでもらいたいのよ。
今日も上の空で話を合わせながら、声を聞く。
-だって…恩を売れるチャンスだもの。
今の状態で倒れてくれたら、遺産はもしかしたら独り占めできるかもしれないし。
わざとらしくならない様に気を付けながら、心配してる感じが伝わるように。
-あんなにバカにされてきたんだもの。もらえるものは多めにもらっとかなきゃ。
そうだ、来週にでもさりげなく遺言の話を匂わせてみようかしら。
会話とはまるで関係のない計算を頭にめぐらせながら、初代は声に出さないように笑った。