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作:冴島岐之


 ――死んでから拾いにいくの、それじゃ遅いよ。

 妹がそういった。父さんが死んだときだった。火葬場で、父さんが焼かれて、そうして出てきてすっかり白い屑になってしまった父さんを見て、妹はほとんど一週間ぶりに声を発した。
 妹は泣かなかった。呆気なく死んだ父さんを見ても、母さんが泣いても、妹は泣かなかったし、それから声も上げなくなった。

 妹の言葉はわかるような気がしたし、気が動転しているんじゃないかとも思えた。
 とにかく、妹が話したのはすべてが終わった後だった。

「お兄ちゃん」

「なに」

 妹は妹じゃなかった。
 年はさして離れているともいえない、僕たちは血はつながっていたけれど、兄妹ではなかった。

 僕が大学進学を決めて東京で一人暮らしを始めてしばらくたった頃、父さんは両親をなくしてしまった従妹を引き取ることを決めた。反対はしなかった。それが妹だった。
 妹の両親は父さんの姉夫婦の子供で、それまでは会ったこともなかった。妹に会ったのは、引き取ることを決めたと紹介されたときが初めてで、お兄ちゃんと呼ばれるほど何かをしてやった覚えもなかった。

 妹は妹じゃなく、従妹というほど親しくもなく、知り合いになった女の子程度にしか思っていなかった。妹はそのとき中学生だった。

 それでも、僕の何がそんなによかったのか、妹はよくなついてくれた。付き合ってきた女の子たちにだって『何がよくて付き合ってたのかわからなくなった』なんて、とんでもないというかひどいというか、そういう科白をいわれたことがある僕だ。だから妹のそれは、年上に対する憧れだったのだろうと僕は思っている。

 妹は月に一回は必ず電話を寄こしたし、手紙もくれた。その中には大抵写真も入っていて、少しまるまった癖のある字でなんでもないようなことが書いてある手紙を、僕は嫌いじゃなかった。
 最初こそ戸惑ったけれど、妹は返事はいらないといってくれたし、たまに電話を僕からかけてやるとひどく喜んだ。妹はかわいかった。

「お兄ちゃん」

 僕等は成長した。いつのまにか大人になって、仕事というものを覚えて、そして慣れてしまうと、不安だった未来の自分がやるべきことというのはひどく呆気ないものだった。
 僕のこの両手に、地球環境だとかを危惧する世界の未来がかかっているなんて、軽すぎてわからなかった。
 世界は誰も必要としていないのに、僕等は世界を必要としてる。
 そんなよくわからない世界より、隣にいる同僚の愚痴や女の子を口説く方がひどく疲れたし、何倍も重要なことのように思えた。
 それでも、妹はかわいかった。

「お兄ちゃん」

「どうしたんだ……?」

 妹は何かを伝えたそうに何度も口を開くのに、それは全部僕を呼ぶそれに変わった。まるでそれを口に出すことで何かを失うことを恐れているようにも思えたし、意味なく僕を呼んでいたいだけのようにも思えた。
 妹は大学生になった。

「……大樹」

 妹は何かに怯えるように、唇をふるわせながら僕の名前を呼んだ。初めて呼ばれたそれに、僕は少しだけ驚いたが、妹の様子が普通ではないことがわかっていたので気に留めないようにした。妹は泣きそうだったと、後で思った。

「どうした、いってみろよ」

 妹は唇をきゅっと結ぶと、うつむいてしまった。長く伸びた黒の綺麗な髪がさらりさらりと顔を隠してしまう。僕はどうしたものかと思って妹の様子をじっとうかがっていたが、妹はとうとう何もしゃべらなかった。

 それからしばらく経って普通の生活に戻った頃、僕は変わらずに来ていた妹の手紙がぷつりと途絶えたことに不安感を覚えた。会った後は大抵一週間と置かずに、妹は僕へ手紙を寄こした。あのとき、話しかけていたことと何か関係があるのだろうか。
 ある日曜日、僕は妹が、僕と同じように上京して一人で暮らしているそこを訪ねた。

 普通の、小さなアパートだった。淡いグリーンの外壁が気に入ったのだといっていた。僕は妹の部屋の前まで来て、なんとなく、そこで妹の携帯電話へ電話をかけた。
 電話は数回のコール音の後、静かにつながった。

「もしもし? いま、部屋の前にいるんだけど……」

 妹は返事をしなかった。

「お前、この間様子おかしかったろ? だから心配で……もしもし? 聞いてる?」

 ふふ、という笑い声が聞こえてきた。くつくつと抑えたようなそれは、僕の知っている妹ではなかった。いや、そう思いたかったのかもしれない。

「もしもし? おい、どうしたって――」

「お兄ちゃん」

 しん、と妹の声が電話の向こう側から聴こえてきた。僕はいい知れない不安感に襲われる。

「お兄ちゃん、人は、死んでから骨を拾うでしょう。死んでから、話したり、わかったり……死んでから、何かをするって、それってもう、遅いよね」

「おい、どうした?」

「遅いんだよ、もう。死んでからじゃもう、遅いんだよ。お兄ちゃん、お兄ちゃん」

 それから、電話の声はぷつりと途絶えた。通話を切られた。僕は少しだけ放心した、それからどれくらいたった頃だろう、一瞬だったかもしれない。永遠のように長い時間だったかもしれない。僕の頭は今までにないくらい早く働いていたのかもしれないし、ただ停止していただけなのかもしれない。
 とにかく、聴こえてきた。妹の悲鳴だった。悲鳴、というよりそれは、叫びだった。絶望を目の前にした人間が出す断末魔の叫びのように、ひどく不安と焦りと恐怖を煽られるような、悲痛なものだった。

「友果? おい、どうした!」

 焦ってドアノブがうまく回せなかった、それでも鍵はしまっていなかったので僕はすぐに中に入り込んだ。入ってすぐ、僕はぎょっとした。そこには切り裂かれたブラジャーやパンティ、キャミソールの類が散乱していた。ただ切り裂かれているだけじゃない、所々に赤黒いしみがあった。その下着にはどこを隠すんだと聞きたくなるようなきわどいものもあったし、ピンクや黒のきつい色をしたものもあった。そのどれもが、もう着れる状態ではなかった。
 僕はそれに足を滑らせながらも、部屋に上がった。奥から妹の足が見えていた。悲鳴は途絶えることなく、ただの音として、息を知らない機械のように聴こえてきた。

「友果!」

 妹は白いブラジャーとパンティだけを、それもぼろぼろに切り裂いたものを身につけただけで、長い髪をぎしぎしと引っ掴んで天上の端っこを見つめて、正座を崩した格好で座っていた。あたりにはきつい血の、鉄の匂いがした。
 妹は傷だらけだった。足には痛々しい赤紫色になった大きな痣があった。それは小さい痣がいくつも重なりあって大きく見えているようだった。

 つい一ヶ月前に見た妹とそれは、まるで別人だった。僕は戸惑い、そしてやけに冷静だった。
 あまりに異質な妹とその周り、部屋の奥には取り残されたように綺麗なテーブル。その上を見て、僕は漠然と、だけどすべてを理解した。そこには妊娠検査薬がいくつも転がっていた。昔見たことがあるパッケージが混ざっていたので、僕にはすぐわかった。妹の言葉も、なんとなくわかってしまった。

 僕はわけもわからないまま、妹を抱き締めた。それは細く、冷たい体だった。妹の後ろから腕を回し、そこへ座った僕の足の間にその体を抱きよせた。僕の喉は壊れたおもちゃのように妹の名前を呼んだ。妹は何かの銅像のように体を硬直させていて、髪を掻き毟る腕を止めることができなかった。その力は尋常じゃなかった。
 ただ僕は妹の細い体を二本の腕で抱きかかえて、何かを取り戻すかのように名前を呼んでいた。妹は壊れていた。

 そのうちに、見開かれていた妹の目から一粒、落ちた。僕の腕を濡らした。音が止まった。妹の目は次第に元の目に戻り、そうしてしたりしたりとこぼした。

「おに……ちゃん、」

 妹が確かめるようにぺたぺたと僕の腕を触った。少し腕をゆるめると、妹は僕と向かい合うように体の向きを変えた。円い黒目、僕のかわいい妹。
 妹は確かめるかのように僕の体に触れた。ぺたぺたと、顔も唇も腕も胸も腹も背中も腿も膝も触った。髪の毛に触れ、口の中に指を入れ舌を押した。指を一本一本確かめるようになで、へそに触れた。足の付け根にも触れ、スラックスの下に履いていたボクサーパンツの線をなぞった、妹の白く細い指は僕の性器にも触れた。それは何かを確かめているようで、少しの厭らしさも含んでいなかった。

 それから一通り点検が終わると、妹は顔を歪ませた。そうして僕を確認して、今度は僕を「お兄ちゃん」と呼びながら泣き出した。僕も妹の名前を呼んで、腕に抱えた。
 僕たちは夕闇が視界を奪っていくまで、そこでずっと泣いていた。

=END=














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