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十六
「なんだこれ!?」
 不意にシールドに反射する見慣れない光に、思わず声を上げた。
 明かりの中央にはエンジンのマークが浮かび上がっている。
 ……エンジン警告灯……。
 何だ?
 一体どうしたんだ?
 何も異常なんか……。
 そう思った瞬間だった。
 タコメーターの針が急激に左方向へ落ちていく。
 スロットルを戻した覚えはないぞ!!
 それに……トルクも薄くなってるじゃないか!! 
 !?この感触は・・・・・。
 股の間で感じることが出来るエンジンの鼓動が、覚えのある振動に変わっていた。
 こいつは……ツイン。
 そう、ツインエンジンの鼓動だ。
 ……まさか……死んだのか?
 一発?いや二発か!?
 FZ1は四つのシリンダーがピストン運動をするマルチエンジンを搭載している。
 それが二発死んで、まるでツインエンジンの様なドコドコとした鼓動に変わってしまっていた。
 さらに回転数も単純に半分に落ちてしまったのだ。
 トルクなど、出るはずがない。
 歩道にとりあえず停車させる。
 とりあえず様子を見ようとした。
 だが、すぐに自分の手には負えないことが判明する。
 このバイクはコンピューター制御のフューエルインジェクション。
 素人の手に負える構造ではなかった。
 痛む左手首が私に甘い囁きをくれる。
(頑張ったよ。よくやった。空走距離も走ったことだし、良しとしようや。後はバイク屋呼んでさ、トラックでのんびり帰ろうぜ)
 馬鹿を言うな!
 トラックだと!?
 またそんなものに頼ろうというのか!?
 あの時、あの瞬間の悔しさを忘れたのか!?
 今度こそ、今度こそ自分だけの力で帰るんだ!
(自分だけ?エンジンの付いた乗り物に乗ってよく言うぜ)
 エンジンが付いていようがいまいが関係あるものか!!
 私ははもう、誰にも頼らない。
 自分だけの力で、このバイクで家まで帰るんだ!!
 諦めてなるものか……。
 しかし、前輪ブレーキは効かずシートカウルはひん曲がり、エンジンが二発死んだバイクと、左膝を打撲し左手首を骨折しているであろうライダーで、果たしてどこまで行けるのだろうか?
 状況は文字通り"最悪"なんだぜ?
 いいや、私は帰る。
 絶対に帰ってやる。
 あの時だって最後まで諦めなかった。
 あんな状態だって走ったじゃないか。
 自転車で。
 文字通り自分の力で。


「これでよし、と」
 お髭さんはガムテープを千切ると独り言を言った。
 今、前輪はとりあえず張りを取り戻している。
「もつかなぁ」
 中分けさんがうなり声を上げる。
 跨ってみた。
 体重を一気にかけてみると、しっかりと反応があった。
 少しの間なら、何とか走れそうだ。
「とりあえず……行けそうです。本当に……お世話になりました」
 俺は深々とアタマを下げた。
「いやあ、何言ってんの。俺たちは結局何もしてあげられなかったよ」
「いえ。助かりました。ありがとうございました」
 顔を上げることが出来なかった。
 この世でたった二人の協力者、優しい大人との別れがとても心細かったのだ。
 また、独りになる。
 非難や批判と戦わなくてはならない。
「気をつけてね。無理をしてはダメだ」
 中分けさんの優しい声が耳に痛かった。
 すすり泣いていた。
 もう、止められなかった。
 無理をするのが当たり前だと思っていた。
 無理をしなければ存在の価値がないと思っていた。
 そんな優しい言葉、今まで生まれてきて、親にさえ、言われたことがないのだから。
 二人を乗せたセダンが遠ざかっていく。
 "包帯"を巻いた前輪をぼーっと眺めていた。
 走らなくては。
 少なくても、次の自転車屋まで。
 頼む……持ってくれよ、ガムテープ。
 まさに祈るような気持ちだった。
 走りたいんだ、走らせてください……マリア様……。

 一時間ほどすると、みんなが追いついてきた。
 先頭のリュウヤが俺を発見し、大声で停止命令を出す。
「シュウジ君だ!ストーップ!ストーップ!」
 ははは。声だけはいっちょ前だなあ。
 全員が停止する。
 カズとマサキは遠くから見ている。
 賢いぜ。
 君子危うきに近寄らず、だ。
 Mさんが自転車から降りて近づいてきた。
 サングラスの陰から、応急処置の施された前輪に一瞥をくれる。
「そんなんで走れるのか?走れると思ってるのか?」
 俺はこの日から、サングラスが嫌いになった。
 彼女のこの視線を思い出すからだ。
 それだけ、嫌な目線だった。
 温かさのかけらもない、は虫類のような瞳をしていた。
 ゴーゴンやバジリスク、コカトリスに睨まれたかのように、石になってしまうんじゃないかとも思った。
 だが見つめ返し、きっぱりとこう言い切った。
「次の自転車屋までなら」
「その言葉、わすれるなよ」
 踵を返すとそのよく響く声で皆に指示を出す。
「先頭はシュウジ。以後は奴のペースについて行く。いいか?決して抜かすんじゃないよ」
 隊列はそのまま。
 俺が先頭に回ったのみで、他は変更がない。
 リュウヤの前を走るのは少し嫌な予感がしたが……仕方がない。
 文句を言える立場では、もはやない。
 都市部に入る手前の緩やかな下り傾斜。
 本来ならスーッと慣性に任せ、ペースよく駆け抜けていきたいものだ。
 だが、俺の前輪はそれを許さない。
 走り出して十分で、ガムテープはその力を急速に失っていく。
 緩い下り……つまり思いっきり前輪に負荷がかかるわけだ。
 テープの耐久力を考慮して空気圧を抑えめにしたのも、或いは逆効果だったのかも知れなかった。
 チューブの中の空気は、アスファルトの圧力から逃れるための隙間を探していた。
 その力はテープの耐久性を大きく上回っていく。
 嫌な音がして、次第にテープは破れていった。
 その穴はバーストしたタイヤの亀裂とちょうど一致し、真っ黒なチューブが悪趣味な風船のようにぷっくらと顔をのぞかせ始める。
 ……止まれない。
 まだ、町までは距離がある。
 先ほどのMさんの言葉を反芻していた。
(その言葉忘れるなよ)
 上等だ。
 行けるところまで言ってやろうじゃないか!
「あ!シュウジ君!?ストーップ!!ストーップ!!」
 前輪の異常に気が付いたリュウヤが、馬鹿の一つ覚えのように停止命令を叫ぶ。
 あほか。
 先頭である俺が走り続けているのに、停止命令など誰が聞くものか。
「黙れ!平気だ!心配するな!!」
「でも……」
「良いから黙れ!このまま行くんだ!」
 ぐるぐると、真っ黒なこぶが回っている。
 外から見たら、とても奇妙な光景だろう。
 ご親切に異常を知らせてくれるドライバーの方も多かった。
 そりゃあそうだろう。
 こぶ付きでがたがたと上下に振動しながら走り続ける自転車など、そう見かけることもないだろうから。
 そのうちにかんしゃく玉の破裂するような大げさな爆発音が響いた。
 そう、交換したチューブが破裂したのだ。
 例によってまた、「ストーップ!」
 まったく……学習能力がない奴だ。
 せっかくのリュウヤの親切に、今度は少し甘えることにする。
 何故なら破裂したチューブが前輪のリムに絡まってしまったからだ。
 それに、ちょうど休憩時間にもなる。
 皆が休んでいる間に邪魔なチューブを全部切り取ってしまった。
 もうバーストしたタイヤが残っているだけだ。
 破損した箇所の上からテープで補修する。
 これより先はリムのみで走ることになる。
 そのショックを吸収するものは、もうない。
 俺の両腕で、直接吸収するしかない。
 誰も俺に声を掛けるものはもはやいなかった。
 掛けられる雰囲気ではなかったのだろう。
 再び走り出す。
 開き直ったものは強い。
 周りから景色が消えていく。
 前輪の状況と周囲の交通状況だけに情報が限定されていく。
 ただひたすら、ひたすら漕いだ。
 空っぽのまま、ひたすら漕いだ。
 どれくらい漕いだのかも覚えていない。
 不意にブリジストンの看板が目に入ってきた。
 感動も何もない。
 無惨にひん曲がったリム。
 俺は黙って自転車屋の主人の話に耳を傾けていた。
「どれくらい走った?」
「30km……いや、40……は走ってしまいました」
「うん……前輪はこれ、全部使えないね」
「リムも……」
「ああ、もちろん。こんな状態で……よく走ったねえ」
「いえ……」
 サングラスの悪魔が口を挟んだ。
「それで、幾らぐらい掛かります?」
 自転車屋のオヤジはゆっくりと立ち上がると、スパナをMさんに向けながら言った。
「あなた、保護者の方?」
「ええ」
「これは完全に整備不良だね。どこの店に頼んだか知らないけど……。タイヤも見たこと無いメーカーのものだ。このタイヤじゃあせいぜい1000Km位が限度だね。メーター見ると……1176km……ははは、良く持ったって感じだな、こりゃあ。」
「あのう……砂利道とか……」
「走ったの?なるほどね……舗装路だけならなんとか持ちこたえたかも知れないなぁ」
 ……なんてことだ……現時点でリュウヤのメーターは970kmを超えた所だ。
 余分に走った距離が……俺の前輪を殺したのか……いや、ちょっと待て!!
 一昨年、四国を横断し、九州を一周したときの総走行距離は1800Kmだったはず……。
 それでもトラブルはなかったじゃないか……。
 それに今回、何故パンクが多いのだ……?
 タイヤ!?メーカーではない!?
 俺はそばにあったMさんの前輪を見つめた。
 ブリジストンの文字が確認できる……。
 ちょっと待て……これは一体どういう事なんだ……。
「自転車屋任せにして!自分で確認しないからだ!」
 女の姿を借りた悪魔が、修理を待つあいだ叫び続ける。
「いいか!お前はみんなから旅費を貰って参加してるんだ!それなのにまた修理費か!この費用は返して貰うぞ!」
 ……俺の……俺の責任なのか……信頼して……任せたからか……それが……いけなかったのか……そうだな……きっとそうなんだ……そこまで頭回らなかったよ……はははは……。
「働いて返します」
「何ぃ!?」
「働いて、お返しします。新聞配達でも何でもやって、旅費もひっくるめてお返しいたします」
「ガキが!生意気いってんじゃないよ!!どこに中学生を雇う馬鹿がるんだ!?出来もしないことを軽々しく言うな!」
「何とかします」
「ふん……いい度胸だ」
(こうはいったが、結局返すことはなかった。いや、返す必要が無くなった、と言った方がいいだろう。色々と紆余曲折があったが、ここで話すことではないし、特定の個人を攻撃しかねないので割愛させていただく)
「終わりましたよ!」
 その声に救われ、弾かれるように店の軒先に戻った。
「交換箇所は……リム、スポーク、タイヤにチューブ……。チューブ以外はブリジストン製だ。確認するかい」
「はい……」
 確かに……ブリジストンのロゴを確認できる。
「後輪を見てみるんだな」
 言われるがままに後輪を見た。
 ……思わず吹き出しそうになった。
 よく似ているロゴの入った知らないメーカーのタイヤが、そこには存在していた。
「後輪は……まだいけそうだよ。中のチューブも強いヤツだ。交換しなかったかな?」
「チューブは……大丈夫だと言うことで……」
「そうか……でも、安心は出来ないから……気を付けてね」
「はい。ありがとうございました」
「あ!……帰ったら、すぐに交換するんだよ。それに……しっかりクレームを出すこと。いいね」
「……はい。ありがとうございます」
 俺は再び走り出した。
 江戸川を目指して走り出した。
 あれれ……自転車って……こんなに走りやすかったんだなぁ……。
 あれれ……自転車って……こんなに速く走れたんだなぁ……。
 でも、もう遅いやぁ……。
 遅いよ……。


 そう……最後まで走り続けること。
 それが大事だ。
 確かに車に乗って移動した空走距離はあった。
 だけど、前輪がその機能を失っても、あの時の"俺"はあきらめないで走り続けた。
 そう、あきらめなかったじゃないか。
 どんな状態だって、きっと上手くやればたどり着ける。
 自分を信じるんだ。
 あの時の俺に出来て、今の"俺"に出来ないはずはない。
 中学三年生の少年に出来て、31歳のおっさんに出来ないはずはない。
 エンジンはまだ動く!
 ブレーキだってリアは生きてる!
 シートカウルなんて、曲がってたって座れりゃあそれでいい!
 膝が痛くたって、シフトペダルを蹴り上げる事くらいわけない!
 手首の骨がどうした!
 曲げることは出来なくても、クラッチを握ること位、我慢すればまだ出来るじゃないか!
 キーを回し、キルスイッチを押す。
 頼りなくツインになってしまったエンジンに火が入る。
 ねじり曲がったシートに跨ると、俺は自分に言い聞かすようにヘルメットの中でつぶやいた。
 回転数に気を付けろ。
 クラッチを離すときは四千まで上げて、半クラッチを長めに……。

 都市部に入り、交通量が増え出す。
 ストップ&ゴーが増えると、。それだけ半クラッチを多用しなければならない。
 気を失いそうになるのを、右手で太ももを叩いて我慢する。
 そのうち脳内でモルヒネが大量に分泌されてきたのか、痛みは消え、妙に感覚が鋭くなっていく……。
 左折を知らせる乗り合いバスの方向指示器の点滅の間隔と、エンジンの鼓動がシンクロする。
 そうだ……年をとったらツインのエンジンも悪くないな……ドコドコって気持ちいいかもな……。
 そんなことを考えながら、少しずつ距離は減り続けていく。
 もうすこし、ツインの感覚を味わっていたいな……。
 もうすこし、このまま走り続けるのも、悪くないかもなあ……。




「俺だったらあきらめてますよ、もう!」
 サービスの兄ちゃんがボロボロのFZ1を眺めながら、半ばあきれ声で言った。
「いやあ、凄いなあ……よく走ってこられましたねぇ……この状態で……」
 バイク屋の社長はもはや笑うしかない、といった様子だ。
 そりゃあそうだ。
 こんな馬鹿、恐らく初めて見たことだろう。
 プロが見てもそれだけの状態だって事だ。
 本当に良く帰ってこれたものだと、我ながら思う。
「それで……お体の方は……」
 俺は未だ脱ぐことの出来ずにいた、グローブとライダースの袖からどす黒く変色した左手首を出して見せた。
「あとは……左膝が痛い"だけ"……ですかね」
「うわ……それ……折れてますよ!」
 今日何回目だろう・・・・・このセリフ。
「それで、クラッチ握って帰ってきたんですか!?」
「うん……まあ……仕方ないモンねぇ……」
「仕方ないって……どうして連絡くれなかったんです?トラックで迎えに行ったのに……」
 当たり前の疑問だ。
 だから、当たり前に答える。
「走りたかったんです。」
 二人は顔を見合わせた。
「いやあ、ホントに凄いや……」
 サービスの兄ちゃんが腕を組み、息を漏らす。
 そうだよ。
 俺は馬鹿なのさ。
「どうぞ……」
「あ、どうも。いただきます」
 社長が差し出した見慣れた缶コーヒーを遠慮せずにいただく。
 親切にプルタブを開けてある。
 嬉しい。
 前の自販機で売られている飲み飽きた缶コーヒー。
 だが、その味は格別だった。
「うまいなぁ」
「ははは。そうでしょう」
 甘苦いコーヒーは妙に優しい味がした。



 よう、"俺"。
 俺は走りきったぜ。
 どんなモンだ。
 まだまだ。
 俺はまだまだいけるだろ?
 お前の旅はまだこれからだな。
 その終わりに笑顔はない。
 だが、走り続けるんだ。
 これからお前がさまよい続ける暗く長いトンネルも、いつかは出口が見える。
 その日まで、ペダルを休めるな。
 ペダルを漕いだ数だけ、距離は減るはずだ。
 一漕ぎ一漕ぎ、ゆっくりでいい。
 辛くてもその漕ぎを休める事なく走り続けるんだ。
 そうすればきっとたどり着ける。
 この場所にな。


 泣きじゃくっていた"俺"が笑った気がした。
 
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