ひい、ふう、みい、よ……、あれ?
夏の夜の湿った風を全身に受けながら、仏生寺弥助は頭を掻いた。
よ、の後はなんだっけか?
首をひねってみても思い出せない。酒を飲み過ぎたせいでいつにもまして頭の回転が悪い。元より、素面であったとしても思い出せるか怪しい。
そこに思いが至るや、弥助は一人、首元を掻いてかぶりを振った。
まあいい。沢山居ることに変わりはねえ、か。
数えるのを諦めた弥助は、目の前の闇に眼を凝らす。
弥助の目の前には、頭巾で顔を隠した侍たちが立っていた。前だけではない。京五条の狭い通り。弥助の後ろにもやはり紺色の頭巾をかぶった侍たちの姿がある。
しかし、とてもじゃないが友好的とはいかない様子だった。頭巾で顔を隠している男たちの眼は闇の中でらんらんと輝いて、弥助の喉元を凝視している。群狼のようだった。その目には怒気にも似た激情がほの見える。今にも抜き放たんばかりに、誰もが刀の鯉口に左手を添え、右手を柄に添わせている。まるで無学で文字も読めない弥助だったが、この状況が分からぬほど馬鹿ではない。
こいつら、俺を殺しに来やがった、か。
身に覚えはある。いや、身に覚えがあり過ぎる。
仕方ねえわな。
心の中で弥助は呟いた。
厄介者に、居場所なんざありはしねえや。
気炎を吐き出しながら、弥助は左の刀を抜き払った。音もなく露わになる刃は青白い焔のように光が揺らぐ。瞬間、弥助を囲んでいた追手たちが少しどよめいた。まるで目に見えぬ壁に押されているかのように、一斉に後ろに引く気配があった。だが、後ろに逃げる足を気力で押しとどめる気配もある。
この気配から分かることは二つ。一つはあからさまに弥助の剣を恐れていること。そしてもう一つは、この追っ手たちは使命感や功名心といった、とにかく強烈な何かを背負いながらここに立っているということだ。
ち。
弥助は舌を打った。
ダンビラを見せつけて大喝一声で散り散りになるかと思ったのに、ことはそう簡単にいかないらしい。
こりゃ、やべえ。
弥助は、ほとんど刀を握る感覚のない右の手を見やった。少し、震えている。恐怖のせいではない。酒のせいだ。さっきまで古い馴染みと飲んでいたせいで、自分の限界も忘れて飲みに飲んでしまった。
酒の酔いを自覚しはじめると、忘れていたはずの酒毒が身体を巡り始めるような感覚に襲われる。目の前に立つ刺客たちの姿が何重にもなって見える。酒のせいですっかり目が回っている。それだけじゃない。ほんの少し動いただけなのに、息切れがキツい。心の臓の音が耳について離れない。何より、全身に鉛が塗り込められたかのように重い。
死ぬのか、俺ァ。
諦めが早いのではない。一流の剣客であるゆえに分かる。自分はここで死ぬ。なにせ手が動かない。刀を抜けただけでも良しとしなくてはならない。
しかし、納得がいかないのも事実だった。
見れば、自分を囲んでいる連中は大した実力ではない。数に恃まれたとはいえ、こんな連中に討ち取られるのも癪だった。しかも、酒さえ入っていなければ倒せる連中なのだ。
こんな連中に俺は殺されちまうのかよ。
しかし、いっそ清々しい。畳の上で死ぬよりははるかにいい。むざむざ老いを晒して死ぬのは、弥助の性には合わない。
むしろ、弥助の心中には、別の心配ごと、心残りがあった。
酒に呑まれたくらいで仏生寺弥助が遅れを取ったなんざ、俺はよくても仏生寺弥助の名前が許さねえだろう。
なら――。
己の剣客としての名を惜しむ弥助は、得意の左片手上段に構え、己を囲む刺客を睨みつけた。
「おい! この仏生寺弥助に勝負を挑んだんだ、てめえら腕の一本くらいは覚悟しやがれよ! それとも、獄門から始まる長旅に同道願おうかい」
その一喝が闇の中に広がるや、弥助は一気に動いた。大上段に構える刀を地軸の底まで、目の前の刺客に振り下ろす。刀を抜く間もなく目の前の刺客は仰向けに倒れる。
ようやく動き始めた刺客たちは慌てて弥助に向かい刀を差し向ける。だが、弥助はその上を行く。右の足を大きく振り出して刺客の頭を蹴り上げた。頭を揺さぶられた刺客はどしゃりとその場に崩れ落ちた。
神道無念流のお家芸・大上段からの眼にも止まらぬ打ち下ろし。
一撃必倒・百発百中の右足上段蹴り。
天下無双、不世出の剣客である仏生寺弥助の表看板二つを惜しげもなく放つ。
だが――。
斬ったはず、蹴り倒したはずの刺客が、ぬらりと立ち上がる。
「なに?」
頭を振りながら立ち上がる刺客を見据えたその瞬間、弥助は悟った。
酒のせいで手の感覚が鈍って刃筋も立っていないし、蹴りにも重みがない。普段ならば相手を殺し穿つはずの技が、酒に酔ってすっかり鈍ってしまっているのだということに。
ちくしょうが。殺すどころか腕の一本さえ取れねえのか、俺ァ。
刺客たちが弥助に迫る。前の三人が思い思いに剣閃を放ってくる。
すべてが見えている。
かわす。
いや、かわしたはずだった、が――。
激痛が弥助の右肩に走る。
見れば、刺客の刃が深深と弥助の右肩を薙いで刺さっていた。
ちくしょうが!
弥助は左の刀を薙ぎ払う。弥助の剣閃は弥助の肩に斬りかかった刺客の肩を撫ぜる。短い呻きを上げ、刺客は一歩退いた。弥助の右肩に刺さる刀を手放して。
激痛が弥助を蝕む。ただでさえ酒で感覚が薄れているというのに、右の激痛のせいでさらに頭に入ってくる感覚が薄れ始めていた。それに、血を流している。今は高揚でなんとか気を保っているが、そのうち血が足りなくなり昏倒することだろう。刺さる刀の刃筋に沿って流れる鮮血の量が、弥助の命の期限を切々と刻んでいた。
俺ァ、死ぬか。
ここで俺ァ死ぬ。確実に死ぬ。なら――。
不思議なものだ。さっきも死が頭を掠めていたのに、腕一本を持って行かれた段になると、また“死”というものに新たな意味が生まれたようにも思えてきた。吹っ切れた、といってもいい。
弥助は迫り来る刺客たちに、牽制の横薙ぎを放った。一陣の風のような横薙ぎに身をよじらせた刺客たちに、弥助は言い放った。
「おい、この中で一番強い奴、出てこいよ」
刺客たちはその動きを止めた。それどころか、さっきまで立ち上らせていた殺気さえも吹き飛んだ。ただ独り、囲みの奥にひかえている一人を除いては。
その殺気の先に向かって、弥助は怒鳴りかけた。
「どうせ俺は死ぬんだ。この命は惜しくねえが、名は惜しい。なます斬りにされるよりは、一刀両断されて死にてえなあ。それにお前らだって、あの仏生寺弥助を一騎討ちで殺したとありゃあ名前も上がるだろうがよ」
未だ動かぬ刺客たち。
弥助は大喝した。
「分からねえのか! この仏生寺弥助様が今生最期の稽古をつけてやるって言ってるんだよ! おめえも剣客の端くれなら、早く出て来いって言ってるんだよ!」
既に、ほとんどの刺客たちは弥助に気合負けしている。その誰もが頭巾に隠れていない目をきょろきょろと動かしながら、他の者の様子をうかがっている。目の前の弥助を恐れている。奥に控える一人を除いては。
不意に、弥助の囲みが解けた。
人の壁が割れて、奥から一人、剣客が現れた。
やはり頭巾で顔を隠してはいたが、その筋骨までは隠し切れていない。薄い平服からは血管の浮かぶ太い筋肉を覗かせている。特に、肩から首にかけての筋肉の隆起は隠せない。これは、打ち下ろしの修練を積みに積んだ剣客が身につける体格である。
そして弥助は、顔を隠すこの男の立ち姿に見覚えがあった。何せ、長年見知った関係だ。
だが、敢えて口にしない。
「ふん、出てきたか。相手してやるよ、かかってこい」
だが、出てきたその男は一言すら口にしなかった。
ふん、陰気臭いのも相変わらず、か。
鞘走りの音もさせずに刀を抜き放つ剣客は、その切っ先を弥助に向け構えた。まったくもって教条通り。何の遊びも閃きもない正眼。だが、弥助の見知ったるその男は、平凡なる剣を磨きに磨き、秀才となした男だ。
弥助も構える。
しかし、得意の左片手上段ではない。左片手の正眼。
その構えを見せるや、頭巾に顔を隠す男が、ようやくくぐもった声を発した。
「なぜ片手上段に構えない。あんたの得意は片手上段だろう」
「言ったろう、稽古をつけてやる、ってな」弥助は薄く笑った。「お前如きに片手上段を見せてやる必要はねえ」
安い挑発だったが、男は乗ってしまった。
地を這うような大喝一声と共に、その男は動いた。
大きく振りかぶり、放つ打ち下ろし。初見だったならば、見切ることも出来ずに体軸を一刀両断されてしまうのだろう。まさしく達人の剣だ。
だが、弥助はすべて読み切っていた。なにせ、これは弥助の学んだ神道無念流の名物、大上段からの渾身の打ち下ろしだ。そして何より、弥助があまりにも規格外だ。かわせぬはずの剛剣を、かわせる剣へと変貌させてしまった。
遅れて弥助も動く。
相手の剣が届くよりも早く一歩踏み出し――。
相手の首元に、切っ先を突きつけた。
一瞬、相手の動きが止まった。
弥助は左足を前に踏み出し、右足を思い切り蹴り上げた。弥助の爪先が男の顎を思い切り捉える。
男は音もなく尻もちをついた。
弥助は、誇らしげに笑った。
「俺の勝ちだな」
勝負は定まった。男は顎を打たれて目を回している。しばらくは立てまい。手負いとはいえど、動けぬ者を殺せないほど傷ついてもいない。
生と死が交錯する。
勝利を確信した弥助が左の刀を振り上げた、その瞬間だった。
脇腹に激痛が走った。
左の脇腹を見れば、赤くぬめる刃の切っ先が腹から飛び出している。右脇腹を見れば、弥助に向かい脇差を突き刺したまま固まる刺客の姿があった。恐らくは、この勝負を見ていられずに割って入ったのだろう。
弥助は、その刺客の顔を見た。頭巾で隠れて顔は明らかではない。ただ、頭巾から覗く目は、蔑みと怒り、恐れがまじまじと見てとれた。弥助の視線に気づくや、その刺客の眼は恐れの感情で曇り始めた。弥助の身に刀を残したまま尻もちをつき、後ずさりして離れていった。
遂に、弥助の膝が折れた。二本もの刀が刺さる身を揺らしながら片膝で立つ弥助だったが、やがて体験したことのない虚脱に襲われ、へたり込むようにして地面に座ってしまった。そしてその瞬間、口から赤々とした鮮血が溢れた。
口元をぬぐう弥助は笑った。
「はは、まあいい。勝負には勝った」
弥助の独り言を、目の前の尻もちをつく剣客が拾った。
「いや、お前の負けだ」
「何?」
「お前の武はお前だけのもの。そして、お前しか救わない。だが、俺は違う。仲間がいる。たとえ俺が死んでも、俺の意志を継ぐ者がいる」
仲間、か。
弥助は思う。俺に、仲間なんかいなかったと。
元々、弥助は農家の三男坊だった。だが、江戸の大剣術道場である、神道無念流・練兵館へと奉公に出された。しかし、見よう見まねで神道無念流を収めたという。気づけば師匠にも付かぬうちに当流の高弟を圧倒するほどの腕に成長していた。この際、神道無念流を学んでいた門弟連中や、相手にもされなかった高弟たちに恨まれた。
その腕が買われ、神道無念流最強との誉れの高い岡田十松に剣を教わり、当代一流の実力者とまで言われるまでに至る。江戸剣術界きっての天才の誉れ高い岡田十松をして、『アレの剣才には勝てんな』とまで言わしめた。天才。その言葉を嫌う秀才たちや凡才たちに恨まれた。
とはいっても、文武両道が建前となっていたこの時代、学才がない人間はどんなに剣腕があっても評価されなかった。しかし、弥助には驚くほど学才がなかった。文字も読めないし簡単な計算も出来ない。とにかく、学才がないせいで半ば干される形だった弥助のことを、神道無念流に若者を多く留学させていた長州家中が不憫に思い、高杉晋作などの働きがけもあって弥助は家中に囲い込まれることになった。これは長州家中のうだつの上がらない連中や格式を重んじる連中から嫌われた。
そして、長州家中に入るとなった弥助だったが、武士になるからには具足が必要だろうとある商家に押し入って金をせびり取った。しかしながらその金も、気づけば女遊びに消えていた。これが商家に恨まれ、長州家中へ被害の届が出されてしまった。
それだけではない。商家から巻き上げた金で女遊びにうつつを抜かす中、かつて同門だった芹沢鴨という男に偶然出会った。再会を祝して顔を突き合わせ酒を飲んでいる最中、芹沢の口から、最近芹沢が会津家中お抱えの新撰組なる私兵隊の隊長になったという話を聞いた。そして、お前も新撰組に入らんかと誘われた。悪い話じゃない、そう思った。家中みたいな堅苦しいところにいられるか、だったら芹沢の下で適当に遊んでやろうじゃねえか、とばかりに二つ返事で新撰組に入隊するのを約してしまった。そして、商家からの届けを受けて、弥助のことを内偵していた長州藩士たちが弥助の離反を聞き及び、激高したのは言うまでもない。
もちろん、弥助はその恨みすべてを把握はしていない。
だが、この男は勘に鋭い。目の前の人間が自分を好と思っているか悪と見なしているかは過敏なほどによく分かる。
今まで弥助は自分へ向けられる蔑みや疎んじの視線から逃げ回ってここまで来た。奉公に出たのもそう。練兵館を出たのもそう。岡田十松のところを離れたのもそう。長州に行きたくないとばかりに芹沢と手を組もうとしたのもそう。だから、分かっていた。自分はいろんな人たちから恨まれているのだと。
そして、いつでも弥助は独りだった。
だからこそ、弥助は剣を磨いた。独りで生きるために。練兵館の奉公をしていた頃には、風呂釜の薪で素振りを隠れてやっていた。誰もいないところで、誰よりも修練を積んだ。手の血豆を何度も潰し、足の甲が鉄のように硬くなるまで樫の木を蹴った。血だらけになりながら、ただ独り、道を歩んでいた。
俺はただ、俺として生きたかっただけだ。
弥助は目の前の男に向いた。
「おい、仏生寺弥助の最期の勝負は楽しんでくれたか」
血の海の真ん中で、弥助の脳裏には昔の光景が広がっていた。思い出した光景は、今、目の前に居る男との竹刀での勝負の風景だった。思えば、色んな人に疎んじられていた江戸練兵館での日々の中で、こいつだけは俺を邪険にはしなかったっけ。
しかし、男は答えた。
「楽しいわけ、ないだろう」
すると、血の海の中で弥助は楽しげに笑った。変わらねえなあ、と。
「真面目だねえ、若先生」
すると、目の前の男は覆面の隙間から覗かせる目を見開いた。
「なぜ、分かった?」
「分かるさ。あんたとは付き合いが長い」
弥助と対峙した男――。それは、斎藤新太郎だった。弥助が身を置いていた神道無念流・練兵館の館主である斎藤弥九郎の長男坊である。長州と早いうちから縁を結び、長州が神道無念流びいきになったきっかけを作った男だ。弥助のことを長州に引っ張ったのも新太郎らしい。
奇妙な縁だ。仏生寺弥助を強くし、天下への道を開いたのは間違いなく神道無念流だ。だが、その神道無念流が、弥助の命を散らせんとしている。
「なあ」新太郎は言った。「なんであんたは、こういうふうにしか生きられなかった?」
弥助は考えてみた。
しかし、いくら考えてみても分からなかった。
なにせ、そんなことを考えたこともなかった。
弥助は、茫然と答えた。
「さあね。こういうふうにしか生きられなかったからだろうな」
遂に弥助は座っていることすら出来なくなった。目が回る。仰向けに倒れそうになるところを、無理矢理うつ伏せに倒れる。
“男が倒れるときにはうつ伏せに倒れろ”って、誰の言葉だったっけか。薄れゆく意識の中で、弥助はそんなことを考えていた。だが、思い浮かばない。
弥助の頭上から、いくつもの声が吐き捨てられた。その声は、弥助に対しての憎悪で凝り固まり、嵐のように風をはらみながら渦巻いていた。だが、弥助の耳にはそれらの雑言はただの雑音しか聞こえない。そのくせ、誰かの放った一言だけが耳をついた。
「さらば、天下第一の剣」
心の内で、弥助は応じた。
さらば、と。
それは、別れの辞に対する返答だったのだろうか、それとも、天下第一の剣にして孤独だった、仏生寺弥助という自分の生への弔いの言葉だったのだろうか。
幕末。文久二年の夏。
ただ己の剣のみを頼り、無軌道に生きた仏生寺弥助は死んだ。
長州の手の者による誅殺だというが、真相は藪の中である。
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