終章 夜が来て、また朝が来て
僕たちは、その後、必死で馬を飛ばして、ハリスへと向かった。
あの砦が一番近く、そして軍医が居たからだった。
スピカの手は幸い腱が切れてはおらず、回復すれば日常生活にさしさわらない程度には動かせるようになるだろうと言われた。
しかし、もう剣を握ったりすることは出来ないし、一生涯鈍い痛みと醜い痕が残るとも言われ、僕は心が痛んだ。
スピカは怪我のため、酷い高熱を出し、意識がもうろうとしていた。あまりにそれが続くので、しばらくツクルトゥルスのアルフォンスス家で療養することとした。
ハリスは騒がしくて療養に向く場所ではないし、何かと落ち着かない。その点ツクルトゥルスには温泉があり、それが傷にとても良いということだったのだ。
叔母が居なくなって、主が居なくなったこの屋敷は、今は僕の別荘として管理していた。
一人管理のために住み込んでいた侍従が飛び出してきて、眠ったままのスピカを受け取ろうとしたが、僕は彼女を自分で部屋まで運ぶ。
もう誰にも触らせたくなかった。
僕は彼女の熱が下がるまで、寝食を忘れ、つきっきりで看病を続けた。
侍従は泣いて変わってくれと頼んだが、譲るわけにいかなかった。
医者はこの熱で命を失うことは無いだろうと言ったが、僕は心配で堪らなかった。
僕が見ていない間に、彼女が消えてしまうのがとても怖かったのだ。
どんな形であれ、もう彼女を失うのは嫌だった。
まだルティが諦めたかどうか分からない。彼の傷がそんなに早く治るとも思えないが、もう油断するわけにはいかないのだ。
レグルスは、僕らの護衛のためハリスから数人の兵士を呼び寄せると、一度報告のためにシープシャンクスへと戻り、叔母とスピカの世話をする侍女を連れてきた。
どうやら、見ていられないくらいに僕は窶れてしまっていたらしい。
叔母が事情を察して、僕をなだめる。
「私たちが見てるから。あなたは少し休みなさい。そんな顔していたら、スピカが起きた時にびっくりするでしょう?」
その言葉で、ようやく僕は休む気になって、隣の部屋で泥のように眠ったのだった。
どれくらい眠ったのだろう。
昼も夜も無い生活をしていたため、何時眠りについたのか覚えていなかったが、ずいぶんと体が軽くなっている気がした。
起きてみて、眠る前に、ずいぶん心が病んでいたのが分かる。
本当に、僕は疲れきっていたみたいだ。
体が病むと心も病む。
僕はそれに気がついて、しっかりしようと思った。
――スピカが起きた時に、こんな情けない姿を見せたくない。
僕はただその一心で、食事をとり睡眠も取るように心がけた。
そうして、何日かすぎた頃、ようやくスピカの熱が下がり、話が出来るくらいに回復した。
「シリウス……痩せた?」
彼女の第一声はそれだった。
僕は苦笑いをしながらそれに答える。
「ちょっとね。ちょっとだけだけど」
それを言うなら、スピカの方がずっと痩せてしまっていた。
スピカは心配そうに僕の頬に右手を伸ばしかけ、苦痛に顔を歪める。
「あ、そっちの手は……」
「そうだったわね」
スピカは申し訳なさそうに、僕を見た。
「いろいろ心配かけてごめんなさい」
「……ホント、無茶するんだから。……命が縮む。もう二度とやっちゃ駄目だよ、あんなこと」
スピカは少しふくれた。
「……だって……あれしか方法思いつかなかったんだもの」
僕はあの光景が目に浮かびかけて、慌てて頭を振る。
この思い出は一生僕を苛むだろう。
でも……忘れてはいけない。
二度とあんなことにならないために。あの時の自分の情けなさを忘れないために。自分への戒めだった。
それから2、3日で、スピカは起き上がれるようになり、僕は彼女と長い話をした。
ルティとシトゥラについてだった。
彼らが僕を手に入れるために、母を弑すようにけしかけた話を聞き、僕は心底腹を立てた。
ただ……本当に10歳の子供がそんなことが出来たのかという疑問は残る。
それに、僕の暗殺に関しても、結局は証拠は無いし、彼のやったこととしてそれを詳らかにすれば、ミルザまで傷つくことが分かっていた。
おそらく后妃はそれを望まないだろう。
結局は、闇の中に葬るしかなさそうだった。
ルティは、酷い嘘つきだ。彼の言ったことがどこまでが本当かなんて、本人でない限り分からない。
しかし、言葉の端々に出る本気の言葉も、僕は覚えている。
彼は「一族が大事」と言っていた。
きっと、シトゥラによって傷つく自分の大切な人たちを見ていられなかったのだ。父母や、従姉妹、そして彼自身。だから力を手に入れて、その原因である国を変えようとした。
確かに方法は強引で間違っていたと思う。
しかし、その情熱だけは僕も見習わなければならない。
――皇太子として。
ジョイアは確かに平和で富んでいる。しかし、その現状に甘えていてはいけない。
今、平和だということが、これからもそうであるということとは必ずしも繋がらないのだ。
僕はもっと世界を知らなければならない。
もっと広い世界を見て、何があろうとも、自分の国を、自分の大切な人たちを守れるように。
「スピカ。僕は、もっといろんなことを知って、国を守ることを考えなければならない。……僕はもうすぐ皇太子として即位する。今までのようにのんびりとはしてられない」
スピカは静かに微笑む。
「分かってる。……外の世界を見に行くのでしょう」
僕は頷いた。
今まで父や臣下に任せきりだった外交も、これからは積極的に出て行く必要がある。
僕は初めてこうして外に出てみて、自分の目で見ること、経験することのすごさを知った。本を読んだり、人に聞くだけでは分からないものがそこにはあった。
スピカを正妃にするということは、彼女にも同等のことを求めなければならないということだ。
それは、国内にいるよりもずっと危険が伴うことだった。
それでも、僕は彼女に隣を歩いて欲しかった。
「僕は、これから全力で君を守る。だから……僕に付いて来てくれるかい?」
彼女は頷き、そして、その顔にとびきりの笑顔を浮かべた。
*
スピカの傷が塞がり、僕の即位式も迫ったある日。
とうとうツクルトゥルスを発つ日がやって来た。
僕とスピカが墓参りに行くと言うと、レグルスが大きな包みをスピカに手渡した。
スピカは、中身を見てびっくりしていたが、僕に少し待つように言って、部屋の中に入っていった。
しばらく後、出て来たスピカを見て、僕は思わず感嘆のため息をつく。
彼女は、青い異国の衣装を身に纏っていた。
それは、今までで見た中で一番綺麗なスピカだった。
「きれいだ……」
思わず僕はつぶやく。
スピカがそれを聞いて嬉しそうに少し頬を赤らめた。
「ラナが唯一国から持って来たものです」
レグルスがそう言って、スピカを見て満足そうに微笑む。
「……アウストラリスの花嫁衣装ですよ」
「どこかで見たことあると思っていたのよ。……家にあったのね」
スピカがつぶやく。
「この子が結婚する時に出してあげようと思っていたんですが……。即位式ではさすがに着れませんからね。……ラナに見せてあげて下さい」
僕は笑顔で頷いた。
*
ツクルトゥルスにも遅い春がやって来ようとしていた。
雪解け水が、小川に流れ込み、チロチロと小さな音を立てている。
雪の中から小さな青い芽が覗き、所々、黄色い花を咲かせていた。
僕は雪を掻きながら、少しずつ小さな道を造り、スピカを墓の前まで連れて行った。
そこには2つの小さな墓があった。
僕の母の墓と、スピカの母の墓。
母の墓は本人の生前の願いで、この故郷に置かれていた。
そして、ラナの墓は、彼女の希望で、帰る故郷のない彼女のことを思った叔母によって、ここに据えられたそうだ。
僕は墓の前に立つと、母に向かって、一連の事件の解決を伝えた。
「これで、あなたも少しは浮かばれるでしょうか」
ふと雲の切れ間から光りが差し込み、辺りがひときわ明るくなった。
春に向けて少しずつ力をつけた日の光が、真っ白な雪に反射して、目が痛くなるほどにまぶしい。
目に飛び込む色が白でなければ、真夏とも言えそうな明るさに、僕は一瞬目がくらんだ。
そして、急激に思い出した。10年前の夏、ここでの出来事を。
――母さま……かあさま!
――泣かないで、シリウス。あたしが、あたしがずっと一緒にいてあげるから。
――本当に?スーは、母さまみたいにぼくを置いていったりしない?ずっとぼくと一緒にいてくれるの?
――置いていったりしないわ。あたし、シリウスが好きだもん。だからずっと一緒よ。
――本当だね?ぜったいだよ?
――ぜったいよ。約束するわ。
――わかった。じゃあ、約束のしるしに、ぼくの名前を教えてあげる――
…………
――いやだよ!スーと一緒じゃないとうちには帰らないよ!ぼくたちは約束したんだ!ずっと一緒だって!
――シリウス……泣かないで。あたし、いつかお城に行くわ。今は一緒に行けないけど、きっと行くから。あたしが守ってあげる。シリウスが泣かなくてもいいように。
ああ………これは。
僕は、幼い日の誓いの言葉をはっきりと思い出していた。
覚えていた言葉の断片が綺麗に繋がり、僕は愕然とした。
なんで忘れていたんだろう。
きっと僕は意味は分かっていなかったのだろう。でも、これでは、まるで……。
僕は多分真っ赤になっていたと思う。
――まるで、プロポーズではないか。
僕たちは、ちゃんと誓っていた、10年前に、ここで。
――しかも、男女の役割がはっきりと逆のような……
ふと隣を見ると、スピカが吹き出しそうな顔で僕を見ている。
僕はしっかりとスピカの左手を握っていた。
「やっぱり、忘れてたのね」
「ご、ご、めん」
これは………全く言い訳できない。
……単純にど忘れしていたのだ。
というか、都合の悪い部分は忘れていたのかもしれない……。あまりにかっこ悪い。
僕があたふたしていると、彼女は僕を少しだけ睨んだが、やがて堪えきれないように笑い出した。
「いいの。シリウスが忘れっぽいのは今に始まったことじゃないし。……でも。……もう忘れないでね」
――もう二度と忘れるもんか。
僕はそれに答える代わりに、いたずらっぽく笑うスピカにキスをして、母親たちの前で、スピカに3度目の誓いの言葉を贈ったのだった。
-fin-
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