第6章 第2話 誘惑
それっきり、ルティは黙り込んでしまった。
あたしはとりあえずホッとして、考えを巡らせた。
逃げなければならない。目の前の男は、いままでのルティとは違うのだ。先ほどまで信じられなかったが、ようやくそう思った。
……シリウスは助けにきてくれるだろうか……。
本当はそう信じたかった。
でも……彼の立場を考えると、来て欲しくなかった。一国の皇太子がする行動としては軽率だと思えるし、危険が大きすぎる。
あたしのために彼が危険を冒すのは、嫌だった。
あたしが、今こんなところにいる事だって、そう簡単に分かるとは思えない。
……王都……つまりエラセド……。なぜそんなところに行くのかは分からないけれど、そこに着くまでにはなんとしても逃げないと。
このままルティのものになんかはなりたくなかった。
*
ムフリッドは、もともと降雪量が少ないのか、寒さの割に雪が少なかった。
そう言えば、西の方は、雨が少ない土地だと聞いた事はあった。
山を越えてからはずいぶんと景色も違って、背の低い木々がまばらに生えている痩せた土地だった。
馬車から降りて、あたしが興味深そうに景色を眺めていると、ルティが優しい表情で説明してくれる。
「アウストラリスは、国全体を山に囲まれていて雨が少なくてね。……その上、大きな川もない。水がとても貴重な土地なんだ」
ジョイアとは大違いなんだわと、あたしは驚いた。
山脈一つで、こんなに気候が違うとは。距離にして1日かそこらで、こんなに気候が違うと面食らってしまう。
「だから、ジョイアは狙われる。この国はジョイアの水が欲しいんだ」
なるほどと思い、ふとルティを見上げると、彼はあたしに向かってその茶色の目を細めて微笑んでいた。
夕日に照らされて、彼の赤い髪が余計に赤く見えていた。額に落ちた影が彼の瞳の色を濃くして妙に艶やかに見えた。
あたしはなぜか焦ってしまい、目をそらす。
優しくされると、悪感情が持てなくなってしまう。自分を攫ったようなヤツなのに、悪く思えないなんて。
いっそのこと、嫌いになれればいいのに。
そうすれば、どんな手段を使ってでも逃げるのに……。
「あんたは、なんで、シリウスを裏切ったの?いえ、シリウスだけじゃないわ、父さんやあたしも」
「裏切り?人聞きの悪い。ちゃんと宣戦布告はしただろう?なのに油断してる方が悪い」
宣戦布告?
あたしが不思議そうにすると、彼は心外だと言わんばかりに、肩をすくめた。
「俺は、君を貰うって言ったじゃないか。……ほんとに誰も本気にしてないとはね。それまでの演技がうますぎたのかな」
そういえば……。
「でも、あたし断ったつもりだったわ」
「君は何にも言わなかった。俺は断られた覚えは無いけど」
確かに、そうかもと思い、あたしはため息をついた。それにしたって、あの状況で誰が断られていないと思うのだろう。
「……じゃあ、今断るわ」
「もう手遅れだ。ここはアウストラリスなんだ。だから、この国のやり方でやらせてもらう」
「この国のやり方?」
「欲しいものは力ずくで奪う。奪われるのは奪われたほうが悪いんだ。……もし、あの皇子様が奪い返しにくるんなら、受けて立ってやるよ。まあ、そんな事は無いと思うけどね」
あまりに自信たっぷりに言われたので、あたしは不思議に思った。
あたしでさえ、その可能性を全く否定は出来なかったというのに。
「シリウスが来ないって……どういうこと?」
「……あいつ、君の事忘れてたよ」
ルティの言った言葉に、あたしは頭が真っ白になった。
「え……?」
「君を見て、『あの娘、いったい誰なんだ』って言ってた。あんなにしっかりと忘れるなんて、予想してなかったけど」
「そんなの……嘘よ!!!」
思わずそう言ったけれど……あたしは妙に納得していた。
……そうなる事は、予想できていた。
――だって、彼は、あのときずっとあたしの事を考え続けていたのだから。
あたしにくちづけながら、あたしを抱きしめながら、あたしとの思い出をずっと思い浮かべていた。
その記憶を……奪ってしまったというの―――。
シリウスがあたしを求めてくれていたから、あたしは彼の側に居れたのに。
彼のその記憶が無いのなら、――もうあたしは彼には必要ない存在だ。……きっと助けにも来てくれない。
あたしは、今の自分を支えてくれていたものが、脆くも崩れ去っていくのを感じた。
ルティは、その茶色の目であたしを覗き込みながら、優しい口調で言う。
「君、一度、疑ってみたほうがいいんじゃないか、自分の気持ちを。
本当に、あいつでいいのか?
あいつがいったい君に何をしてくれた?今までだって、辛いことのほうが多かっただろう?
これからだって、君という存在を差し置いて、新しい妃をどんどん迎えるんだよ?
利用されてるだけなのをいい加減気づいたらどうだ」
追い討ちをかけるようなその言葉に、あたしは、思わずムッとした。
何も知らないくせに。分かったようなことを言わないで欲しかった。
「そんなことない!あたしは……知ってるもの。彼の気持ちを」
「『君が好きだ、君が欲しい』って?」
あたしは頷く。
ルティはそんなあたしを見つめ、にやりと笑う。
「そんなこと、どんな男だって思う。たとえどんな女の子が相手でもね。
……君がとても美味しそうだったんだろう、単なる側近にしておくのは誰でも惜しいと思う。
単に女に飢えてたんだよ。食欲と一緒だ。お腹が空いてれば、目の前の食べ物を我慢できないからな。……その違いが分かるっていうのか?君に」
「そんなこと……っ」
あたしは、答えられなかった。
以前自分の想いと、彼の想いの違いに疑問を感じたことがあったのだから。
胸を一突きされたようだった。一気に傷口が大きく開き、そこから真っ黒な嫌な感情が流れ込んでくる。
「あの様子じゃ、あいつ、たぶん君が初めてだったんだろうけど。手っ取り早かったんじゃないの?単に。
隠してたみたいだけど、かなり複雑なトラウマ抱えてたみたいだし。いざとなって手出せなくなっても、君なら事情を知ってるから切り抜けられると思ったとか。
これから迎える妃を抱けるようになるために、君で練習したとかね。
……ちょうどいい駒だろう。平民出の幼馴染なんて。あとは適当に小金でも握らせておけばいいんだから。
ヤツ、君を正妃にしてくれるって約束でもしてくれたのか?しなかっただろう?本気なら、そのくらいの約束しそうなもんだけどね」
「……」
「おや、さすがに、言い過ぎたか……」
あたしは言われたことが胸に刺さり、その痛みを耐えるのに精一杯で、何も言えずに黙り込んだ。
ルティのその言葉はあまりにも的を射ていた。
有力な貴族の娘や、外国の姫を妃に迎えて、国を守って行く、そういう立場にある彼のことを考えると、あたしなんかの存在は害になる。
シリウスが国のことを考えるのなら……あたしをそう利用しても文句は言えない。
もともと、あたしは、利用されてもいいと彼にそう言っていたのだから……。
そう考えると――今の状態は、彼にとって、国にとって最善なのかもしれなかった。
そんなこと……信じたくなかった。シリウスのあの時の想いだけを信じたかった。
けれど、ルティの言葉は、あたしのそんな気持ちを抉りとり、そこにしっかりとその疑いの種を蒔いてしまった。
――彼は、あたしじゃなくっても、よかったのかもしれない――
その疑惑を取り除くのは……今のあたしにはもう無理だった。
呆然とするあたしを哀れに思ったのか、ルティはあたしの頭にポンと手を乗せると自分に引き寄せた。
あたしは体に力が入らず、引き寄せられるままに、ルティに寄りかかった。
「俺はあいつよりももっと君を大事にする。戻って辛い思いをするより、俺と一緒にいた方が幸せと思わない?」
たった今つけられた傷口に甘い誘惑の言葉が染みわたっていく。
「俺は、君以外を娶ろうとは思っていない。これから一生君一人だと約束できる」
――だめ。その言葉は。
あたしは、シリウスにそう言って欲しかったのに――。
でもシリウスが、そう言ってくれる日はもう来ない……。
あたしは自分の心が壊れて行くのを感じた。
それがルティの作戦だと思おうとしても、駄目だった。
近づく彼の唇を、今のあたしはもう拒むことが出来なかった。
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