第2章 第3話 くちづけ
シリウスは、翌朝にはほぼ普段通りの彼に戻っていたが、あからさまにあたしを避けるようになっていた。
目をそらされ、会話も無い状態に、あたしはいたたまれずに、馬の世話をしていたシリウスを捕まえ、部屋に連れ込むと謝った。
「……ごめんね、あたしがしっかりしてなかったせいで……あんなこと」
「いいんだ。あれは僕が油断したせいだから。スピカのせいじゃないよ」
シリウスはあたしの眼を見ようともせずに、うつむいて言った。
「騎士として失格だよね……」
「いいんだ。本当に」
シリウスはきっぱりと言って、その話を切り上げたそうにしていた。
あたしは、それ以上何も言えず、しばし黙ったが、やがておずおずと話を切り出した。
「あ、あのね。シリウス」
「何」
「あたし、この間……あなたの記憶、見てしまったの。……ごめんなさい。そんなつもりなかったんだけど」
シリウスはうつむいたまま表情を変えなかった。
やがて彼が口を開いた時、あたしの耳に届いたのは、聞いたことのないような冷たい声だった。
「……それで?」
そのあまりの冷たさに喉が強張り、声が張り付いて出てこない。
「……僕に同情した?」
顔を上げた彼のその表情にあたしは鳥肌が立った。
目だけ笑っていないその笑顔。
「……僕を汚いと思った?……何とか言えよ!」
笑顔が急激に崩れたかと思うと、彼は歯を食いしばった。
その瞳は前髪に隠れて見えなかった。
「心を読んで、僕の気持ちが分かった気になったの?……無理だよ。実際にそういう目にあわない限りね!」
次の瞬間、二の腕をすごい力でつかまれたかと思うと、シリウスのその黒い瞳が目の前にあった。
唇に何か熱くてやわらかいものが触れていて、そこから胸が焦げるような痛々しい想いが流れ込んでくる。
――滅茶苦茶にしてやる……!!
――僕と同じように汚れてしまえばいいんだ!
これは、何?
それは手で触ったときより遥かに強烈だった。
いつの間にか、あたしは床に倒されていて、体の上にはシリウスが覆いかぶさっていた。
体が触れ合う部分からさらに想いが流れ込んできて、あたしは自分がシリウスになったような気がした。
だんだんと自分が誰なのかも分からないような状態になってしまい、ただただ呆然とされるがままになっていた。
やがて嵐のような激情がふと何かにせき止められたかと思うと、彼は一気に戸惑いだした。
どうやら自分のやっていることに気が付いたようだった。
――ど、どうしよう……こんなことするつもりじゃなかったのに……
――でも、なんだか、離したくなくなってきたよ……スピカはなんてやわらかいんだ……もっと先に……
――あれ?そう言えば、ぼく何か大事なこと忘れてないか?……
次の瞬間、シリウスが一気にあたしから離れた。そしてよろよろと後ずさると、壁に張り付くようにしてしゃがみこんだ。
その顔が耳まで真っ赤になっている。
「ご、ごめん……その……えっと」
あたしはようやく自分を取り戻したが、混乱はなかなか消えず、すぐには言葉も出てこなかった。
「あたし……今シリウスになってたわ」
ようやくそれだけつぶやくと、大きく息をついた。
「あなたの気持ちだけでなくて……あなたが感じてる感触とか、そういうのも全部分かった。……なにかしら、あれ。あまりにすごくて……」
「か、感触!?」
「なんだか自分で自分を触ってるみたいで、すごく変な気分で……」
シリウスは「もう止めてくれ」と小さく叫ぶと、耳を塞いで顔を伏せた。
その様子を見てあたしはハッとして、口をつぐんだ。
そうしてしばらくして落ち着いた頃に、シリウスはようやく顔を上げると、小さな声で話し出した。
「……キスのせいか?だって今までくっついてても別にそんなこと無かっただろう?」
あたしは、言われて初めて、あれがキスだったということに気がついた。
あの唇に触れていたものは……シリウスの唇だったということなの……
そう思うと、急に顔が熱くなり、あたしは思わず指で唇を抑えた。
「……たしかに、唇からすごい勢いであなたの考えが流れ込んできて……そうだわ、多分そのせいよ」
あたしがそう言うと、シリウスはその顔に影を落とした。
「……僕、ひどいこと考えてただろ。ごめん。………一瞬君をめちゃくちゃにしたいと思ったよ。汚してやりたいって」
あたしは何も言えずにただシリウスを見つめた。
彼は自分のしたことをごまかそうとはしないようだった。
「知られたくなかったんだ。誰にも。だって、誰だって僕のことを汚いと思うだろう?……あんな目に遭って、それでも僕はおめおめと生きてる。死ぬ勇気もないんだ。だからいろんなことをごまかして、流されて生きてきたんだ。……いっそのこと、この間死んでいれば良かったのかも」
気がついたときには、あたしは、彼の頬を殴っていた。
バチンとすごい音がして、手のひらがジンジンとしびれた。
「そんなこと、言わないで。死んでいれば良かったなんて言わないでよ!!!あなたは全然汚れてなんていない。死ぬ勇気がないのではないわ。死なないのはあなたが強いから。あたしは見たの。あなたの中に昔のままの強くて優しいあなたがいるのを」
あたしは肩で息をしながら、ほとんど叫ぶように言っていた。
あたしはさっき、シリウスの心の奥に、固い殻に包まれた小さな思い出を見つけたのだった。 それは、あたしが大事にしていた思い出と同じもの。
それが、彼を狂気から救い、彼を正気に戻してくれたのだった。
――そのことにシリウスは気づいていない様だったけれど。
シリウスは呆然とあたしを見ていたが、やがてあきれたようにため息をついた。
「どうして、そこで怒るんだよ……僕のことなんてどうでもいいだろう。君は君がされたとこで怒るべきだよ」
「どうでもよくない!どうでもいいなんて言わないで!……あたしは、あなたが自分のことを嫌いだっていうのが、とっても悲しいの!」
シリウスは迷惑そうに顔を背ける。
「いいじゃないか、別に。僕のことなんだし。これは……多分どうしようもない。どうしても消えない傷なんだ」
「分からないわ、そんなこと。あたしの力を使えば」
あたしはシリウスをじっと見つめた。
シリウスは微かにたじろぎ、目を泳がせた。
「……スピカ?」
「父に聞いたの。あなたの傷を消す方法」
「!」
シリウスは、せっかく元に戻った顔色を再度赤くして、体を強張らせた。
「君は、それがどういうことか分かってないだろう……?」
「分かってないわ。でも、たとえそれがどんなことでも、シリウスがそれで楽になるんなら、あたしはそれでいいの」
シリウスはあたしの顔をしばらく見つめていたが、やがてふいと目をそらしてため息をついた。
「……思い出すんだ。その、そういう状態になると。その時の気持ちとか、いろいろ……。さっきもあのまま続けてたら、思い出してたと思う。僕はあの闇を二度と見たくないし、君にも見せたくないんだ……」
「で、でも、一生そのままではいられないでしょう……」
「……だとしても、ぼくは君をそういう風に利用したくないよ。これは僕の問題だ。君まで巻き込めない」
最後はきっぱりとした口調でシリウスは言った。もうこの話は終わりだとでもいうように。
そうしてゆっくりと立ち上がると、あたしを見て優しく微笑んだ。
「心配してくれてありがとう」
あたしは部屋を出て行くシリウスの背中を呆然と見送って、一人残された部屋の中で一生懸命考えた。
つまり彼の傷を治すには、とんでもない大手術が必要らしい。瘡蓋になった傷口を開いて、消毒して、また縫い直すような。
その手術を承諾させるような手段を、いくら考えても、あたしは思いつかなかった。
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