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勇者エーサ
 ――二年前、イーサファルト王国、ホルヘ高原、公爵の城。


 ゲールハーツは頬をしきりにかいていた。目の前に少女が居る。
 黒髪に黒い瞳、体は男物の鎧を着こなせるほど大きい、しかし、肌は触ると溶けそうなほど白い。
 この少女に、勇者にふさわしい剣の手ほどきをするのが彼の役割である。

「エーサさま、そう何度も何度もお城を抜け出されてはこまります……ヘグニ公にお役目を仰せつかった私どもを困らせないでください」

 少女は、つーんとそっぽを向いた。

「礼儀作法の授業にはちゃんと出ておりまする」
「それで礼儀作法が身についていないのではお話にならないではありませんか」しかも語尾が微妙に変だ。
「失敬な、国語の授業にも、教養の授業にも、魔法の授業にも、ちゃんと出ておりまする」
「ちゃんと出ていないの私の授業だけですか……」

 ゲールハーツはぷるぷると拳をふるわせた。いったいどういう意味だ。
 教える立場の彼も年のころはさほど少女と変わらないので、ひょっとすると彼だけ舐められているのかもしれない。
 ゲールハーツはまだ二十代前半の青年である。七年前に元服し、アルト公爵に仕える一介の正騎士という身分になった。
 いままで何人か新人の剣術指南を受け持ったことはあるが、彼女には優秀な新人になくてはならない「やる気」がない。
 まるで精神修養のために嫌々騎士にさせられた貴族のぼっちゃんさながら、やらされている感が見え透いていた。アーディナル中部では伝統的に若い頃に騎士見習いをする家系が多く、ゲールハーツもそういった新人を受け持ったことがある。

「エーサさま、あなたはご自分がいったい何者であるかという自覚が足りません。あなたは何者ですか?」
「我が名はエーサ! ドラゴン・ライダーの赤い星に導かれ、異世界より現れた勇者だ! アンドラハルの魔王を討伐し、この世に更なる光をもたらす救国の英雄である!」
「英雄である!(キリッ、じゃありません。それでは用意された台詞をただなぞっているだけではありませんか! そうではありません、ご自分の言葉でおっしゃってください、あなたは何者ですか?」
「我が名はエーサ! ……」

 反射的に言ってしまったエーサは、はっとしてしばらく固まっていた。どうやら続く言葉がでなかったらしく、ふいに涙目になった。

「……ううう、だって、これを覚えなければご飯が食べられなかったんでありまする……」

 はっ、そうか、授業をサボったら、ご飯ぬきにすればいいのかとゲールハーツは一瞬感心してしまったが、相手は救国の勇者だ、一介の家庭教師にご飯抜きなどという強権が発動できるはずもない。ここはあえなく断念した。
 しかし……驚くべき記憶力だ。
 ドラゴン・ライダーの赤い星が最後に出現し、北の遺跡で彼女が発見されたのがつい三ヶ月前。ヘグニ公爵によれば、そのとき勇者はこの世界の言葉をまるで話せなかったという。
 伝説の勇者を見つけたことを、王にはすでに報告してしまった……なんとか王に会わせられるぐらいには教養をたたき込まねば、ということで彼らが家庭教師として公爵領に招かれ、朝から晩までみっちり徹底的に教育を施しているのである。
 この短期間で言語は不自由ないくらい習得してしまったし、これだけの長台詞をすらすらと暗記してしまったのはさすがだ。魔法使いに向いているかもしれない、きっと呪文を覚えるのも容易だろう。

「ゲールハーツ、もし王からそういう質問があったら、私はどうすればいいのでありましょうか?」
「素直におっしゃったらどうです? 元いた世界の事でも」
「私は元居た世界の記憶を忘れてしまったのでありまする……なにも覚えていない、気がついたら遺跡に倒れていた……」

 エーサの声は、すこし震えていた。

「私はどうすればいいのでありましょうか? 本当は自分が何者で、どこから来たのか、本当に勇者であるかどうかも分からないのでありまする……」
 
 ゲールハーツは、エーサの肩をがっしと掴んだ。
 薄い灰色の瞳を持つ彼が生涯見たこともない、漆黒の瞳をまっすぐ見ると、まるで瞳の中に吸い込まれそうだった。

「エーサさま、あなたは勇者です。そして我々の希望です。……我々にはあなたをお守りする義務がある、そしてあなたにはその献身に報いる義務がある、それが信頼というものです」
「わたくしには良くわからないでありまする……」
「分からなくても結構です。授業をお休みになるときは、遠慮なさらずに私におっしゃってください。急にいなくなって、下々の者達をむやみに不安にさせるようなことだけは、おやめになってください、それは勇者のすることではございません。あなたは我々の希望なのですから。いいですね?」

 唇をとがらせたり、きゅっと結んだり、エーサの心の中は色々と忙しそうだった。
 ようやく、おそるおそると言った風に声を出した。

「ゲールハーツ……今日は休んじゃダメ?」
「今日はもうお疲れですか?」
「ううん、これから薬草摘みに行くのでありまする」
「いいでしょう。あまり遠くへ行かないように。それと基礎練(素振り三千回、ダッシュ五千回、腹筋背筋二千回)だけでもやっていってくださいね」
「やってられるかー!」

 エーサはついかっとなって鋭いまわし蹴りを放った。彼女は鎧を身にまとっており、脛にまともに当たった威力は強烈だった。ゲールハーツが悶えている間に、勇者はその場から逃げ出した。

「きょ、今日は用事があるから休むのでありまするー! これにてー!」
「ま、待ってください! 《伝説の勇者様》には軽いメニューでしょう……? 一体、どうしてそんなに嫌がるんですか……!」

 ゲールハーツの中の勇者基準は、とてつもなく高かった。
 それがエーサにとって重荷だったのは言うまでもないが、それだけエーサは期待されていたということだ。
 それが《勇者エーサ》だった。


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