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二十八話 静養
 

 僕は軽い昼食の後安楽室でソファに身を沈め、リディアの淹れてくれた紅茶を傾けながら呟く。

「へえ。ジルヴァも考えるもんだなあ…。"課題を出してくれ"とはね」

 静養とは名ばかりの実質引き篭もりと化している僕はリディアの読み上げてくれる書簡の内容を聞いて笑みを浮かべる。
 正直なところ、いくら教育が必要とはいっても一から十まで僕が全てを教えきれるものではない。基礎となる考え方や概念を懇切丁寧に教えることはできても、実際の経験からくる理論の肉付けを行うのはジルヴァたちなのだ。平和ボケしている理屈ばかりの日本人である僕と、僕から見れば歪んだ育ちではあってもグラーフ王国で生まれ育った彼ら。互いに補い合わなければならない部分は間違いなく存在している。その部分をどうするか、というのは僕にとってのささやかな悩みではあったのだがジルヴァの提案はそれを解決してくれるものだった。
 僕に対する気遣いの言葉などと共に届けられた書簡の内容を要約するとこうだ。

 "革命に賛同する者全員の総意として、革命の理念と方針を改めて吟味し我らが血肉としせんがためにご助力を請いたい"

 後宮に呼び寄せ僕に協力してくれていた貴族の子弟たちはおろか、その従者たちを含む全員――百名以上に上る署名が添えられていた。

「いやはや、参ったね。僕に教科書を書けって言うのか、あいつは」

 僕はカップを片手に苦笑する。
 彼らの前に立ち、偉そうな態度で知識をひけらかしてきた僕はお世辞にも紳士とはいえなくても紛れも無く教師の立場だった。教材は自己批判と貴族主義のアンチテーゼでしかないというのに、ある種僕の妄想でしかない理想を規範にしようというのか。
 …いや、そうはならないか。ジルヴァの署名の次にはレヴェッカの名前があった。僕のことを否定しがちな彼女のことだ、素直すぎて頭の固いジルヴァとも良い具合にバランスをとるだろう。僕が致命的な間違いを犯したとして、それに噛み付かない彼女ではない。真っ向から反対意見を出してもらえるというのはありがたいものだ、少なくとも僕にとっては。

「それに"ご助力"ときたもんだ」

 こればかりは笑いを堪えられない。

「ミノルさま、そんなに可笑しいことなのでしょうか?」

 まだ字の読めない僕の代わりに書簡を読み上げたリディアにしてもそれは可笑しいことには思わなかっただろう。彼女の疑問は尤もだ。しかし、ちょっと勘繰ることの出来る文面でもある。

「ご助力、ってことはメインは自分たちでやります。という風にも取れるだろう? ジルヴァたちは僕に楽をさせてくれようとしているとも思えないか?」

「あっ、確かにそういう風にも受け取れますね」

「真実かどうかはさておいて、有り難い話さ」

 極々身近な人とであれば普段通りの精神状態を保っていられるが、まだ後宮最奥のプライベート区画からは出られずにいるというのが僕の現状だ。徐々に改善の傾向は見られているが、なかなか思うようにはいかないのが歯痒い。本来なら僕が引っ張っていかなければならないというのに、僕には特別な力も強靭な精神すらも備わってはいない。望んで手に入るものではないとはいえ、それが情けなくもあり悔しくもある。
 だからこそ、強くなりたいと願った。当然、願うだけでは手に入らないから努力をする。人前に出られなくなった分、身体を鍛えている。一方的な殺戮の憂き目に遭い刷り込まれた死の恐怖を克服するには僕自身が強くなるしかない、というのが震えながらに導き出した答えだ。自分自身を向上させることでしか、この恐怖は押さえ込めない。…という割にはこの身体は自身を傷付け得るものに対して過剰なまでの反応を見せ、ナイフどころかフォークも持てなくなってしまっている。木剣などは論外だ。
 それでも初めの頃はなにも受け付けなかった胃がなんとか食べ物を受け入れるようになったことは大きな進歩だろう。少なくとも、リディアの泣きそうな顔を見なくても済むようになった。

「しかし…現実的な問題として、僕はこの国の文字が書けないんだよな」

 会話に関しては一日の大半を共に過ごしてくれるリディアとのコミュニケートを経て、ある程度の話の意味を拾うことはできるようになってきているが、文字となるとこれは全くの別問題。実際、ジルヴァからの書簡もリディアに読み上げてもらわなければならなかったし、文字が読めないために何かを知ろうとすれば誰かに聞くしかないという大変に不便で、何度か改善を試みはしたものの、挫折に終わっている。形式としては英語を初めとするアルファベットに近い言語形態であるらしいことは判別できたのだが――問題はそのアルファベットに相当する文字が問題だった。象形とも幾何学模様とも思えるような半円や直線、放射線などが組み合わされた複雑怪奇極まる文字であるのがその理由である。それらが26あって各々アルファベットに該当する意味を持っているのだが…その文字をまず記憶することが困難だったのだ。たった26の形状記憶と思うこと無かれ。その形状の複雑極まるところ、もはや異邦人に対する加虐の域である。

「余計なところでファンタジー要素を入れるんじゃない!!」

 と絶叫したのは文字の練習を始めてすぐのことだったように思う。喚きたてる僕に、リディアはご丁寧にも大きな文字の相対表を作ってくれたものだが、未だに覚えられずにいる。一文字が複雑すぎるのだ…。
 そんな経緯を事細かく知っているリディアはすぐに助け舟を出してくれる。

「よろしければ、わたくしが代筆いたしますが…」

 少し困ったように申し出てくれるのも、もう当たり前のようになってしまった。
 …というか、僕が頼めば良いだけの話なのだが…どうにも素直に物を頼めない。それでなくても世話になっているというのに…。という余計な見栄が悪いのだが。

「本当に申し訳ないが、よろしく頼むよ。リディア」

「かしこまりました、ミノルさま」

 落ち着いた様子で優雅に一礼するその様はもうすっかり熟練のメイドさんだ。…本当はまだ着任から二ヶ月も経っていない新人のはずなのだが…その短い期間の間に様々なことがあり過ぎたせいだろう。メイド本来の仕事よりも、ひとつ上のメイド長クラスの仕事をいきなり押し付けてしまったこともある。更に面倒な主人――僕のことだが――の世話まで一人でしなければならなかったのだから、成長もするというものだろう。…もしかしたら、僕の見ていないところではいろいろとドジをやったりもしているのかもしれない。

 閑話休題。


「そういえば、そろそろストラトが来る時間か?」

「そうですね。そろそろいらっしゃる頃かと」

 調度、昼食の後のお茶も済んだこの時間帯にリディアとストラトは僕の御守番を交代する。大分安定してきたとはいえ未だに一人にするには不安が残る、という理由からの措置だ。

 ――コンコン

「ストラト・ツェーリンゲン、参りました」

 それなりに分厚い扉越しにもはっきり聞こえる低く渋い声は間違えようもない。

「噂をすれば影、ってね。どうぞー」

「失礼致します」

 現れたのは老境に差し掛かって尚衰えを知らぬ偉丈夫。見間違えることの難しい侍従長の姿。
 …いつも思うのだが、筋肉質でマッチョなのにどうして執事服が違和感を感じさせないのだろうか。

「それではミノルさま。わたくしは失礼致します。ストラトさま、ミノルさまをよろしく御願いしますね」

「お任せを」

「では」

 言って、リディアは食器と茶器をまとめて退室していく。
 リディアにも仕事があるというのに、傍に就いていてくれるというのは本当に感謝のしようもない。ストラトにしてもそうだ。彼の場合はもっと大変だろうに、嫌な顔ひとつしないで居てくれる。みんながいなければ、もっと早くに潰れてしまっているだろう。
 ぱたむ。と気の抜ける音を立てて扉は閉まった。今、この部屋にはストラトと二人だ。

「さて、ストラト」

「はい、陛下」

 ソファに腰掛ける僕の正面に立つストラトが姿勢を正す。

「ひとつ、大切な頼みがあるんだ」

 僕は無理に笑顔を作って、そうストラトに持ちかけた。

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