第四章 回顧 一
女はサザンカの花をとても好いていた。
いつか家の周りをサザンカで囲んで、それを家族三人で見たいと口癖のように言っていた。
そして真っ赤なその花を優しく撫でるように触れながら、早く子供の名前を決めるように男にせがんだ。
男はその頃、ようやく念願だった刑事課に配属されたばかりで疲れきっていた。
そのためか、そんなやりとりさえも面倒臭そうに相槌を打つと縁側に寝転がりすぐに目を瞑った。
女は小さくため息をつくと、ただ黙ってその脇に腰掛け、自然な動作で男の頭を自分の膝に乗せた。
男は時々胎動するまだ見ぬ子供を感じては癒されるようにゆっくりと微笑んだ。
「ねえ、あなたもちゃんと見てよ、サザンカが綺麗に咲いたのよ。この子が生まれてくるまでちゃんと元気に咲いていてくれるかしら」
突然女は男の右手を自分の臨月の近い腹に押し当てると、まるで子守唄を歌うようにそう言った。
だが彼女の夢は叶わない。
彼女はもう家族を得ることも、歩くことさえ叶わないからだ。
彼らの先に簡単に想像できた全ての未来はまだ小さな手によってあっけなく摘み取られた。
悪夢は予期せぬ落雷のように、突然彼らの頭上に落とされた。
女の身体は土の上でまるで物のように分解され、その全てが一人の少年に辱められたのだ。
その日、女が未来を失った日、男はある事件に駆り出されていた。
ここ頻繁に、ある一区画で騒がれていた通り魔事件についての聞き込み調査だ。
男は家の前に停めてある古ぼけた赤い自転車に跨ると、見送りに出てきた女のいつもハネている右の髪をその流れに逆らわぬようにゆっくりと触った。
そして一言、いつもすまないな、と謝った。
女はその日、定期健診で産婦人科に行く予定があった。
本当ならば初めて「両親」になるための準備としての講習もあったので、今度こそ参加してほしかったのに、と一週間も前から愚痴っていたが、女はすでに諦めた様子で力なく笑うと明るく、無茶をしないようにと念を押した。
男は生返事を返すと突然厳しい目つきで女を睨むように見、普段よりワントーンも低い声を発した。
「あの産婦人科の辺りも最近通り魔が出た付近に近いから、くれぐれも気をつけろよ。人の居ない道を歩くな、不安なようなら必ずタクシーを使え。誰かに話しかけられるようなことがあっても相手にするなよ」
女は大袈裟すぎる、と高い声で笑った。
だが男はそれを掻き消すように大袈裟に言ってるんじゃないんだ、と長いため息の後に小さく、沈んだ口調で言った。
女は分かった、悪かったわと何度か優しく宥めるようにそう言うと、自転車の籠に男の荷物を乗せた。
男は少し迷った様子で自転車に跨ったまま首をうな垂れると、チラリと横目で女の腹を見た。
「理恵、やっぱり聞こうか、準備もしなくちゃならないしな」
それを聞くやいなや、女の顔はたちまち華やいだ。
だがそうかと思うと、期待と不安の入り混じった顔で淡いグリーンのエプロンの端を握りながら、窺うように男の顔を覗き見た。
男はその女の仕草が可笑しかったのか噴出すように笑うと、女の頭を軽く撫でるように叩き、地面を蹴って自転車を漕ぎ出した。
五メートルも進まないうちに男の背中に女の声がぶつけられた。
「行ってらっしゃい、吾郎さん、楽しみにしてて」
男は振り返らずに軽く左手を挙げると、厚い雲が隠そうとしている小さな青空を仰いだ。
女は診察を終えるとはにかみながらも満面の笑みで医師の忙しそうに動く手を見つめていた。
そして医師が一瞬気を緩めるのを見逃さずに、突然腹の中の子供の性別を問うた。
医師はカルテを書いていた手を止め、少し考える素振りを見せたかと思うと突然女の方に向き直った。
「旦那さんから許しが出たの」
「そうなの、今朝ね、やっぱり聞こうって」
医師は嬉しそうに話す女を前にして、少し参ったという表情を浮かべた。
女がどうしたのかという表情で首を傾げる。
「いやあ、困ったな。神木さん、今まで頑なに聞こうとしなかったものだから、今更どう発表したらいいのか。プレッシャーだな」
「大丈夫よ、先生。私、本当は分かってるの、聞かなくても」
女は楽しそうに笑いながら、医師の目から視線を外さずにそう告げた。
「本当かい、それじゃ同時に男か女か言ってみようか」
「いいわよ。先生、妊婦をなめると後で痛い目合うわよ」
女の挑戦的な流し目に医師は少し噴出すとじゃんけんをする時のように構え、女の目を見て「せーの」と声をかけた。
次の瞬間女の口から音が滑り落ちた。
おんな。
医師は驚きの表情のままゆっくりと頷く。
やっぱりね、と勝ち誇った顔をした女は自分たち夫婦は女の子を待ち望んでいたのだと興奮しながら言い、両手で膨れた腹を抱きしめた。
女は飛び跳ねたい衝動を抑えるような面持ちで病院を後にすると、すぐにカバンを漁り始めた。
しかし突然真剣な顔つきに変わると、そのまましばらく帰り道をとぼとぼと歩き続けていた。
だが急に決心したように踵を返すと、そのまま帰り道である大通りには出ず、いつもなら通らない細い路地に入って行く。
女の足取りには迷いがなかった。
およそ百メートルほど路地を真っ直ぐに進んでいくと、たちまち主のような大きさの一本の木が姿を現した。
木は三叉路の北側にあり、その先は行き止まりで、奥には小さなお堂を祀ってある猫の額ほどの空き地があった。
お堂の中には一体の寂れた小さな仏像がおり、その視線は不気味なほど無感情なものだ。
周りは木々の葉の重なりで暗く、日も届いていない。
それどころか、そのお堂さえ茂った木々に邪魔されて、外からでは簡単に確認できないほどだ。
そしてその大きな木に隠れるように昔ながらの雰囲気を漂わせた煙草屋がぽつんと、忘れられたかのように建っている。
女は少し寒いのか身体をビクつかせると、一瞬躊躇するように周りを伺い、ゆっくりとした歩調で煙草屋に向った。
煙草屋の前に着くと中を覗くような格好で人がいないことを確かめ一つため息をつき、少々迷いながら脇に備え付けられた緑色の公衆電話の受話器を上げた。
そして慌てた素振りでテレホンカードを差し込むと男の携帯番号を押していった。
「すみません、ちょっと宜しいでしょうか」
そう声を掛けられ、女は耳から受話器を離さずに首だけを動かし声の主を見た。
目の前には一人の少年が立っていた。
女はその少年の困ったような顔を見て仕方なく受話器を耳から離した。
「僕、道に迷ってしまったみたいなんです」
女は素早く少年の頭から足の先までを流し見た。
少年は右手で黒髪をいじりながら軽く下唇を噛むと、女の目を潤んだ瞳で見上げた。
小柄で利発そうな顔立ちや、綺麗に磨かれたローファーが育ちの良さを醸し出している、と女は思った。
それからしばらくの沈黙の後、女は少年の真っ直ぐな視線からとても逃れられそうにない、といったように軽くため息をつき、同じように真っ直ぐに少年を見た。
「君はどこから来たの」
「近くではないんです、学校行きたくなくって、それで……あ、お姉さん妊娠されてるんですか」
少年はまるで予め決められていたリズムを刻むように突然話の矛先を変えると、花が咲いたように笑顔になった。
女はそれに少々たじろぐような素振りを見せたが、少しの穢れも見えない切れ長の目を持つ綺麗な顔をした少年は徐々に女の不信の念を抱いた表情を和らげていった。
だが女は次の瞬間、ハッとしたように目を見開き力を入れた。
「そうだわ、この辺りで通り魔事件があったのは知ってるかしら」
少年の顔から笑顔が消え、少し強張ったような表情になる。
女は思わず口元を手で覆うと、優しく暖かい顔で笑った。
「ここにいては何だか落ち着かないわ。とりあえず私の通っている産婦人科に戻って、そこで話をするというのはどうかしら? ここからすぐの所にあるのよ」
女は脇でやかましく鳴り続けている電話の口から出てきたテレホンカードを取ると、そのまま少年を見ずに口を開いた。
「……ありがとうございます、すみません、お手間をお取りしてしまって」
女は穏やかな微笑を浮かべたまま首を小刻みに振ると、肩に提げたカバンの中から財布を探り出し、テレホンカードをしまおうとした。
少年は女の目線から外れたと同時に、後ろ手に握っていたハンカチを軽やかな動作で女の口元に運んだ。
瞬間、女は音を巻き添えに奪っていくように優しく倒れ、まるでその一連の流れは芝居をしているのではないかと疑うほど出来すぎていて、一切の無駄がなかった。
少年は慌てる様子もなく、倒れこんだ女をいたぶるように引きずりながら、煙草屋の真向かいにある家の中に連れ込んだ。
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