第十三章 決起 三
語尾を強めた村上の問いの後、すぐにやってきた緊張を含んだ間に、日向は口内に溜まった唾液を飲んだ。
やっとの様子で「何を言っているんですか」と呟いたが、暗闇から飛んでくる声に、全て看破されているような気に陥っている。
「一連の事件の証拠はまだ出ていないの。だから私がいくら向井くんをクロだと踏んでいても、勾留することは出来ない。逮捕するだけの被疑事実が彼にはない」
「俺は」
「でも先の事件で両方の被害者に強い接点を持っていたのは向井くんだけだった。それに司法解剖の結果、犯人は左利きだってことも刺し傷から分かったわ。向井くんは、左利きでしょう? 君は、何を知っているの?」
村上の言葉は水の上を滑るように穏やかだったが、確実に日向の鼓動を高鳴らせていた。
日向は激しくなる呼吸を止め、逡巡している。
その沈黙の中で、村上は突然フッと微笑を浮かべた。
それはどちらかというと己への侮蔑に近い、冷めきった笑みだった。
呼吸で湿った膝頭に右頬を押し付け、そんなことどうでもいいではないかと村上は思っていた。
今更刑事の真似事でもする気なのか。
自分は刑事としてここに来たのではないだろう、と村上の中で自身への蔑みの言葉が溜まっていく。
絡まった感情を抑え込もうと拳を作ってみようと力を籠めた、が、凍えた手は固まり、動かない。
麻痺が進むと皮膚は何も弾かなくなり、音も遠のいていく。
村上は俯き、胸元の辺りにゆっくりと息を吐きかけた。
湿った温かみが肌を滑り、その一時にまだ生きていることを実感する。
そして自分の望みはまだ達成されていないと、だるく、崩れてしまいそうな身体に鞭を打った。
そうしなければ自分を占める感情だけに突き動かされ、全てを投げ出した自分を生かしておくことは出来ないと感じている。
死ぬのは全てが終わってからでいい。村上が自分に言い聞かせた時だった。
「いや、違うんです」
日向は一音一音重々しく発音すると、浴槽の縁に近づき、
「村上さん、俺、同罪なんです。俺も人を殺しました。龍と結託してやったんです」
「結託して?」
「あいつと俺は同体なんだ。だからもう少しだけ時間をください。必ず龍と一緒に自首しますから」
思わず日向の方へ顔を向けた村上は、鼻先に当たった日向の前髪にひどく驚いた。
日向は頭を下げているのかと感じながら、村上は一体何が起こったのかと日向の言葉を再考し、高鳴る鼓動を落ち着かせるように注意深く言葉を繋げた。
「ねえ、一体、何があったというの」
「あの、俺の拘束を解いてもらえませんか」
突然、日向が拘束されている両手を浴槽の縁に乗せた。
村上は逸る気持ちを抑え、少しの間沈黙し、
「いえ、危険だわ。そこまでしてしまったら、向井くんを挑発してしまうかもしれない。あなたをそんな危険に晒すわけにはいかない」
耳の側で鳴る衣擦れの音に、村上は差し出されたままの日向の両手に目を向けた。
暗闇に浮かび上がる手の輪郭に顔を近づけ、ロープを解いてしまおうかとも思う。
だが意思とは逆に身体は動かなかった。
まだ自分の中に刑事としての実直な部分が残っていたのか、と村上は自嘲した。
自宅待機を命ぜられたというのに、それを破り、こうして無様に捕まった自分が今更他人を守ろうとでも言うのか。
そのとき、日向がまるで自分自身に言い聞かせるような口調で村上の黙考を遮った。
「龍は、きっとまだ俺を傷つけたりはしません、断言できます。あいつは俺に否定されて、パニックに陥ってる。今ならまだ間に合うと思うんです。俺しか止められないんです、あいつを」
「私には、日向くんが向井くんと一緒に人を殺したようには思えないわ」
「俺もやったんです!」
「いや、君は絶対にやっていない」
焦った様子で声を荒げた日向を、村上は動じずに一蹴した。
日向が向井に取り込まれることなど、村上は想像出来なかったのだった。
まるで物を壊すように、鋭利なもので傷つけられた向井修造の遺体を思い返す。
あの作業は必ず向井が一人でやったはずだ、と村上の心中には根拠はないが確信があった。
「日向くん。私は刑事としての職務を果たすためにここに来たんじゃないのよ」
「ど、どういうことですか」
立ち膝になったまま呟いた日向を気にせず村上は続ける。
「罪を犯した者を逮捕するとか、そういうことは今の私にとってどうでも良かった。責務も命令も放り出してまでここへ来たのは、彼がどうして殺人を犯したのかということを知りたいだけだったのよ」
君にする話ではないわね、と苦笑する村上の側で日向は俯きがちのまま、ゆっくりと左右に首を振り、
「いえ、聞かせてください」
「向井くんと話がしたかったの。事件を追っていくごとに、向井龍之介に近づいていくものの、そこに答えはなかった。出てくるのは惨い遺体だけで、彼の思いはいつも見えない。
だからどうしても彼と話がしたかったの。向井龍之介という少年が殺人に至った経緯を知りたかった。でもいざ向井くんと向かい合おうとすると、直前になってどうしようもなく怖くなってしまった」
「怖くなった? どういうことですか」
勢いよく顔を上げた日向の起こした風が、村上の身体にぶつかる。
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