第十二章 監禁 九
掴んだと思ったはずの彼の手は幻で、向井はもうすでに視界の外へいってしまったことを理解した。
だが日向は最後の希望を持って、祈るように、
「たぶん、亡くなる前日のことだ。龍の親父さんに会ったんだよ」
友達って、やっぱり誠大だったんだ、という向井の呟きを無視して続ける。
「あの日に見たことは忘れて欲しい、お前なら分かってくれるはずだって言ってた。そのとき何を言っているのか分からなかったけど、こういうことだったんだな」
「……理解出来ないね。あんな男にあの興奮を独り占めされてたまるかよ」
「親父さん、お前のこと愛してるって言ってたぞ。何度も何度も、俺が龍に伝える訳なんてないのにさ、繰り返してやんの。どうすんの、龍。殺したりなんかしちゃってさ。
お前、分かってる? すげえ人、消したんだよ。お前にもちゃんといたんだ、見ていてくれた人が。きっとまだいるんだよ、たくさん。俺たちが壊そうとした、このくだらない世界の中に」
口を開け、小刻みに呼吸すると部屋の冷え切った空気が喉に入り込み、言葉が凍っていってしまいそうだと日向は焦った。
慌てて言えば、感情が先走って声が涙に濡れてしまう。
しかし言葉にすると、憎んでいたはずの向井の父親に、羨望にも似た感情が生まれているのを感じている。
最後に見た向井の父親の中に、身勝手で暖かい「人間」の感情があったからだと日向は思った。
そう思うと、日向の中にもう「人」を憎んでなどいないという確信が生まれた。
だるくてつまらない、独りきりの世界で、誰かと繋がっていたいという感情があったことに嘘はない。
「暴力を使わせたのは、俺だ。だから俺がそこから龍を連れ戻す。外に出ることを怖がるなよ。出会ってみたいと思わないか? 新しい日常に」
日向はコートの襟首を掴んでいる向井の手を両手で挟み、外そうと抵抗しながら強く言った。
向井は手が日向の熱い熱で覆われた瞬間、目を見開き怯んだ。
それを見逃さず、日向は襟首から向井の手を払い、そのまま彼の両手を掴み上げた。
向井は上手く反応出来ないまま、今度は逆の立場となって、万歳をするような恰好で日向の拘束を受ける羽目になった。
「龍に罪を償って欲しいんだ。龍をここまで追い詰めたのは俺だし、龍が俺のためにそうしたというのも分かってる。だから俺が言えることじゃないのだろうけど、二人も殺した龍を庇おうとは思わない。賛同しようとも思えない。でも龍を一人にさせる気はない」
「何言ってんの、お前」
「俺も罪を償う。一緒に警察に行くよ。二人でやったことにしよう」
向井は首を傾げ、理解が出来ないというように左右に振ると、
「ゲームはもう始まってるんだよ。スタートしてから躓いてもいないのに、誠大はリセットボタンを押すの? 誠大こそ怖がるなよ。集中すれば、雑音は何も聞こえなくなる。俺とお前で終わらないゲームを作るんだよ。俺たちの手の上で世界を動かそうぜ」
「これはゲームなんかじゃない」
手首を掴む力を強めた日向は、瞬間的に、手首を掴んで懇願してきた向井の父親の想いがどれほど強いものだったのかを悟った。
「人の命を奪ったのなら、その罪は償わなくてはならない。これはルールだよ。龍の創る世界にそんなルールはないのだとしても、龍が生きているのはこの現実なんだ。龍の言い分なんて通用しない」
「なら捕まらなければいい。俺がそういうシナリオを書けばいいだけだ。困難があってこそ、ゲームは盛り上がる」
向井は先ほどよりも声を張り上げ、煽るように叫んだ。
しかし日向は動じず、拘束の手を緩めることもなく、向井を正面から静かに見つめた。
それには冷たく暗い、穴の底のようなこの部屋を歪ませるほどの強さがあった。
「駄目だよ。俺が絶対に一緒に警察に行く。どんなシナリオになろうと、結末は絶対に変えさせない」
日向は口を噤んだ後で、向井の手が小刻みに震えていることに気付いた。
「何でだ。何があったんだ、誠大。俺は間違ってなんていない。これだけなんだ、俺がずっと求めてきたと思えたものは。お前が離れたから、俺はずっと」
「分かってる、分かってるよ」
日向はまだ向井の手首を掴み上げたまま、だが俯いて搾り出すように言った。
乾いた畳の上に転がる向井の動揺の声が、日向の耳たぶに張り付く。
そして揺さぶり、追い詰める。
向井はそこにあるはずの何かを探すように、落ち着きなく目玉を動かし、纏っていた闇の臭いをぽたぽたと落とした。
日向は目の前で狼狽する向井を見ながら、まるで闇に飲まれていくようだと思った。
そして自分もまた、新しい場所へ進むために何度も向井を殺しているのだ、と思う。
喉から這い出していく言葉が、向井を刺し続けている。
向井は真っ黒な血を流すように、その存在をより暗く、邪悪なものにさせていった。
「俺はこれからもずっと一緒にいる。だから」
「誠大は、俺を、否定するのか」
少しでも落ち着かせようとして、だが言葉に詰まり、おざなりな言葉を吐いた日向は顔を歪め、黙り込んだ。
「そうか。お前は、俺を消すんだな」
日向は向井の夜の凪の海のような目を見てハッとし、思わず掴んでいる両手首を取り落としそうになった。
どろっと濁った目が日向を捕らえ、その動きを封じる。
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