第十二章 監禁 八
「止めてくれ。頼むよ、龍。もう何も言わないでくれ。あの時、二つ返事で坂下にやり返してくれたこと、すげえ嬉しかった。でも今、俺は、まだここにいたいって、どっかで思ってる。
この世界だって、たぶんきっと、そんなに嫌いじゃないんだ。ごめん、龍、ごめん」
日向がそこまで吐露したところで、向井はシンクに凭れ掛かった日向の目の前まで一気に距離を詰めてきた。
そして日向の着ているコートの襟首を乱暴に掴み、捻り上げ、喉を圧迫した。
言葉はなかった。
だが締め上げる力は強くなり、表情のない、しかし血走った目は真っ直ぐ日向を射抜いている。
日向は慌ててそれから目を逸らし、喉に鉛玉でも入れられたかのような息苦しさから逃れようと身体を捩った。
向井はそれを制するために力を強め、
「――夜だった。仕送りが極端に減って金に困っていた俺は、古寺がいない時を見計らって、その日実家に潜り込むことにした。あの家に帰らないと決めた時から、何があってもいいように、風呂場の窓を細工してあった。
だからその日、俺は金や金品をくすねるために、夜中に家に忍び込んだ」
「一体、何の、話だ」
日向は途切れ途切れに、吐き出すように問うた。
しかし向井は奈落の底に続くような暗い目を日向に向けたまま続ける。
「風呂場を過ぎて、二階へ上がろうと居間を通り過ぎるとき、親父とお袋が何か言い合っているのが聞こえてきた。リストラされて出て行ったきり家には寄り付かなかった親父が、汚れた恰好で家に上がりこんでいたんだ。
扉の隙間から覗いて見ると、親父がお袋の浮気を責めているのだと分かった。自分も若い女と散々遊んでいたくせに、いざ全てを失ったら、慰謝料で古寺と遊んでるお袋を許せなくなったらしい。阿呆な話だ」
「だから、何、話してるんだよ。今は、日常を壊すことと、人を殺すことは、イコールじゃないはずだって、そういう話を」
「言い合いはすぐに暴力に変わった。親父は昔みたいに、拳で殴ることで楯突くものを平らに均そうとしていた。お袋が髪の毛を振り乱して、そんな親父の顔に唾を吐きかけたのが見えた。
一呼吸おいて、すぐに空気が変わった。俺は扉の隙間に鼻を潜り込ませるぐらい近づいて、一体何が起こったのかを見ようとした。すぐに嗅いだこともない、張り詰めた空気の臭いがして、親父がお袋の首を絞めているのが目に飛び込んできた」
日向はせっかく逸らした視線を思わず向井へ戻した。
シンクの縁を掴んだ手が、じっとりと汗を掻いている。
苦しさから逃れようと捩っていた身体に力が入らなくなり、だんだんと緩んでいく。
だがすぐに酸素を欲した身体が、日向の意識が届く前に動いて、日向を正気に戻させた。
「首を、絞めた?」
日向の驚きと絶望を含んだ呟きに向井はまるで動じず、むしろ襟首を掴む手に力を加えて応えた。
圧迫が強くなり、日向はいよいよ激しく咳き込んだ。
酸素を求める身体が叫び声を上げているような咳が、立て付けの悪い台所をガタガタと騒がせる。
向井は日向が自分の手の内で悶える様を楽しむように、捻り上げている手の力に緩急をつけ始めた。
「そう。絞めてた。両手の指を広げてさ、首に全体重を押し込むようにして捻り上げてた。俺は気付いたんだ、そこで。俺に足りないものはこれだったんだって。あの興奮は絶対に忘れられない。形容の仕様もない。
心臓がさ、身体を叩くんだよ。誠大がいなくなって、自分が曖昧になっていくような気がしてたけど、あれを見て、生きてることに心底感謝した」
目の前で綻ぶ口元を見て、日向はふと耳のずっと奥で声が蘇るのを感じた。
自分の手首を熱い手で掴み、懇願した男の言葉。
権力や力を纏っていただけだった向井の父親が見せた潤んだ目を日向は思い出したのだった。
――あの日に見たことは忘れて欲しい、と。お前なら分かってくれるはずだ、と。そう伝えてくれ。頼みます。
あ、と声を漏らし、日向はシンクを掴んだ手に力を入れた。
ぬるりと滑る感触があって、手の平の汗と身体の震えに余計に頭の中が真っ白になっていく。
「あの興奮だ、それが答えだった。空っぽだった身体に新しい力が漲ってきて、血が身体の隅々に送り出されていることを感じた。それって、俺たちがずっと感じられなかった感覚だろ」
「――生き、てる」
日向は自分の口が意図せず動き、言葉を刻んだことに狼狽した。
金属を叩いたときのような耳鳴りがして、瞼をきつく閉じて耐える。
今まで姿を隠していた言葉が、日向の中にずるずると戻ってきた。
しかし、それらの言葉に救済はない。
ずっと同じものを求めていたのだ、という感情よりも先に、それを向井は“人が人を殺そうとする瞬間”から得たのだという事実に日向はやはり途方に暮れるしかなかった。
「俺がこの感覚を手に入れたことを、早くお前に知らせなければと思った。お前ならこの興奮を分かってくれるだろう? 誠大が見てきた“外の世界”ってやつに、こんな興奮はあったのかよ」
日向が傷ついたときのような表情で口を開こうとするのをすぐに制止し、
「いや、まだ分からない。お前はまだ分からないよな。これは自分の手でやらなければ、絶対に分からない」
喉を鳴らして笑う向井の振動が伝わって日向の身体も揺れていた。
向井の氷のように冷たい指先が喉仏に触れるたび、日向は失望と後悔の入り混じった感情を強くする。
次回更新は3日後になるかと思います〜。
読んでくださっている方がいらっしゃられたら、申し訳ありません…!
詰んでます^^^^
がんぼりますっ。
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