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  Flow 作者:森カラ
第三章 ループ 四
 まだ悪い夢の続きの中にいるような感覚と、ずしりと鈍く痛む首の付け根に呆然としながら、神木は弱弱しく右腕を上げて取り敢えず足立を安心させることに成功した。
やがて焦点が合ってきて、ゆっくりと目を開けると、神木は目の前に酷く怯えた顔をした村上の顔を見た。

「大丈夫か、神木。お前どっか悪いのか」

 足立が恐る恐る手を差し伸べ支えながら神木を立たせた。
村上は何も言わずに反対側から神木の身体を支えている。

「いや、すみません、今日は何だか久しぶりの現場で朝から調子が戻ってないだけですよ」

 出来るだけ気丈にそう言うと村上が支えている側の身体だけ捩り、彼女の支えを振り解いた。
二人を安心させるように口元に笑顔を作ると頬の肉が意図しない方向に引っ張られ、涙は乾いているのだと直感的に思い、密かにホッとする。

「村上、分かっていることは何だ」

 神木は話題の矛先を変えるように、息も付かずに問うた。
村上は俯き加減だった顔を引き締め、神木を睨むように見据えると静かな声で

「これからまた署で詳しく青木の話を聞くそうですが、概要だけお話します。取り合えず一旦車に戻りましょう」

 村上はそう言うとチラリと足立を見た。

「我々ももう撤収するよ、先に行け。村上、神木を頼んだぞ」

 足立と村上の間に数秒重たい空気が流れ、それを全て受け止めるようにして村上はゆっくりと足立に会釈をした。
そうして強張る神木の腕を強引に取り、その華奢な肩に乗せるといつものペースを崩さずに歩き出した。

神木は左目の端に映りこむ彼女の横顔を盗み見ると、何も言えなくなってただ足を順番に前に出すことだけに集中した。
同じ動作の繰り返しが徐々に自然に出来るようになってくると、それに伴い思考も通常の回転を始めた。

乾いた喉に唾を流すと少し鉄の味がした。
先程震えていた口が力加減さえ忘れて傷つけたのだろう。
時折飛び込んでくる枯葉の壊れる音が、二人の間の中途半端な感情をよりいっそう空虚なものにさせていた。

「そっくりだ」

 思い切って声に出すと妙にしっくりきたな、と神木は思った。
気持ちの悪い感情はこの一言に凝縮され、悔しさと悲しみが入り混じった感情がようやく姿を現した。

村上が何度か小さく息を吸う音が風に乗らずに浮いている。
何かを言おうとしているのだろうが、神木には敢えて言葉に出さなくても彼女が何を言いたいかは分かっていた。

だが言ったところで一体何になるというのだ、と神木は思う。
言えば必ず「言葉」を期待してしまう。

結局は自分の中に「不幸な奴」と「幸せな奴」の境界線を引いて振り出しに戻るだけだ。
自分自身でも答えの出ない問いに触れるもの全て、誰彼構わず縦横無尽に切り裂いて痛めつけたくなるだろう。
だから今まで封印してきたのではないか。

「ほ、本当は何か言いたいことがあるんじゃないですか? 悩んでるのなんかバレバレなんですよ、神木さん。何ですか、事件に何か関係のあることですか、それとも」

 村上は少し辛そうな表情でここまで一気に捲くし立てると、突然言葉を忘れてしまったかのように呼吸までも止めた。

「何だ、言ってみろよ」

 神木は歩みを止めずにそう言った。
自然にスラリと言いたかったが、迷いを含んだもののようになった気がして少し情けなくなる。

ただやはり腹の奥底から興奮の波が音を立てて競り上がって来るのを神木は確かに感じていた。
そして既に挑戦的な受け答えをしたことを後悔もしていた。

「それとも、奥さんのこと、関係あるんですか」

 声のトーンは落ちたものの、いつもと変わりない眼光を神木にぶつけたままそう言った。
その顔からは期待も興奮も何も読み取れない。

だが神木の心の中は確実に灰色に染まり、無邪気に問う村上の声が渦となって身体を包むのを静かに感じた。
忘れていた感情たちが不規則に動き出す。

「だったら何だって言うんだ、もしお前の仕事に支障が出るようなら今回は俺は外れる。それでいいだろう。心配させたのは謝る、悪かった。でも俺は何ともないから。ただちょっと疲れていただけだ」

神木は勝手に走り出していこうとする言葉たちを何とか微笑を加えることで抑えて続けた。「お前にはここ最近迷惑をかけた。今度ちゃんと何か美味いものでも奢るからよ」

 村上は少し首を振ると貸していた肩をスルリと外して、替わりに神木の左腕を女にしては大振りな手で力一杯掴んだ。
神木は予測していたものよりもずっと強い痛みに奇妙な笑顔を消した。

「やっぱりそうなんですね」
 村上はまだ神木の左腕を握り締めたまま、ついに歩みをも止めた。
「何を迷っているんです? いつもあれだけ足を使って納得行くまでボロボロになる人が。一体どうしちゃったんですか」

「別にどうもしない! いくら一緒に仕事をして長いとはいえ、俺の問題にまで入り込んでくるな。聞き上手な自分に酔いたいんだったら他でやってくれ、俺は間に合ってる」

 訳が分からない、と神木は罵声を浴びせながら思った。
あんなに寒さを感じていた身体も今はその表面だけに冷えを残して、身体の中心だけはそこだけ別のものみたいに熱くなっている。

「私は神木さんの奥さんが事件に巻き込まれて、二十年前に亡くなったということしか知りません。ですが、他人だからこそ言わせてください。神木さん、進んでくださいよ。何、立ち止まっちゃってんですか! 何か、変ですよ、神木さん」

 村上はそう言った後も「何か変ですよ」と口元で繰り返していた。
時折乾燥した唇の皮を無意識に歯で剥く仕草は、言葉に出来ない苛立ちを表しているように神木には見えた。

それに加え、睨みを利かせても声を荒げても一向に揺るがず動じない村上に、神木の怒りも臨界点に達していた。
綺麗に治るまでそっと息を吹きかけ、優しく当て布し、静かに守ってきた傷口に乾いた手で執拗に触られているような感覚だった。

 痛みを知らない人間に何が分かる。
 世の中努力してもそうそう答えの出せることばかりじゃないんだ。

 神木は右手でポケットを弄り煙草を探す。
だが右のポケットにそれはなく、拘束されたままの左手側のポケットにしまったことに気付くと、とうとう怒りは爆発した。

「俺は生憎お前ほど立派じゃねえんだ。何を追えってんだ! これ以上! 俺に! 一体何を追って、何を捕まえろって言うんだよ!」

 勢い余って踏み鳴らした足に、硬い冷やされた土の衝撃が伝わり鈍い痛みを覚えた。
靴底との摩擦で起きた砂利の音が劈くように鳴る。

「神木さんは何が欲しいんですか」

 間髪入れずに村上の、神木の感情にちっとも流されず、淀みのない、低くて冷たい声がした。

「何言ってる?」

 神木の声は震える。
咄嗟に自分の声が聞こえたと思った。
揺らぐことなく言い放った村上の言葉が脳天を突く。

「何を追いたいんですか」

 村上の言ったそれは神木が今まで自分自身に問うてきたものとピタリと重なっていた。
こうなることは分かっていた。

本当の口を開けば、俺は二十年前と全く変わっていないんだ、と神木は思った。
だが一度臨界点を突破した怒りは早々には引いてくれず、まだ捕らえられたままの左手を力任せに振り払おうとした。

「甘いですよ、私、高校ではソフト部だったんですから。神木さんでもそう簡単には私からは逃れられません」

 村上は中途半端に上げられた神木の腕をまた自分の肩に回すと、優しく腰を支えて神木に歩みを促した。
神木は早く立ち去りたい気持ちを抑えるように、それに引きずられて重い足を動かす。

砂利を踏む規則正しい不協和音が冬空の下の公園の鼓動みたいに響いた。
だがその音が鳴る度に、神木の固まった表情は少しずつ解されていく。
神木が素直に身体を預けてきたことで歩きやすくなった村上は、小さく顔を上げると深く息を吸い言った。

「私は絶対に犯人を捕まえますよ。どんな結果になろうとも、とにかくそうしたいから」

 黙ったまま神木が顔を上げると、もう視界には見慣れた村上のティーダがあった。


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