第十二章 監禁 五
思わず身体を強張らせ「え」と聞き返した日向を他所に、向井は立ち上がり女の腋の下に手を入れた。
何をしているんだ、と言わんばかりの視線に煽られ、日向は震える手で女の膝関節の下に手を滑らせ、抱え上げた。
予想していたよりも重い。
腕に掛かる女の体重に、改めて内臓が震え上がるのを感じている。
女の白く滑らかな肌や、歩く度に振動で柔らかく揺れる乳房に感情全てが吸い込まれていくようだった。
そのうち日向は目に熱いものが溜まっていくのをどうすることも出来なくなった。
しかしここで向井に歯向かうのは得策ではなかった。
全ての真相を聞く義務が自分にはある、と強く思う。
向井は女をユニットバスの風呂の中に転がすと、外から鍵を掛けた。
鍵は摘みを九十度回すだけのものだったが、外からしか開けることの出来ないよう細工されている。
「これで全部閉じ込めた。もう、俺たちだけだ。やっと」
「なあ、親父さんを殺した犯人は分かっているのか」
日向は笑いかけている向井に向かって思わず問いかけた。
問いかけずにはいられなかった。
女の冷たい肌に触れた瞬間、日向の中で弾けたものがあった。
これまで気持ちのどこかに巣食っていた、「向井を肯定したい」という気持ちにヒビが入ったのだった。
それは日向自身も追いつかないほどに突然のことで、まだ戸惑いの中にある。
向井は沈黙していたが、頬を時折痙攣させている日向の顔をぼんやりと眺めながら、「ああ」と言った。
「誰なんだ」
「俺だよ」
向井は満面の笑みを作り、まるで子供が母親に一日の出来事を報告するように穏やかだった。
予想していた通りとはいえ、これまでしたことのない安心しきったその笑みに、日向は怯んだ。
「何ですぐそうやって急かすかなあ」
向井は立ち尽くしたままの日向の脇を抜け、畳の部屋に戻りながら、
「これから話そうと思っているのに」
何かが通り過ぎていったような違和感を頬に覚えた日向は、右手だけを動かし、それに触れた。
指の腹にヌルッとした感触があり、そのまま手を目の前に翳すと指先が濡れている。
そこで日向は初めて自分が泣いていることに気付いた。
その涙の理由を自分自身に問いかけるが、適当な答えが見つからない。
溢れ出るものは、薄汚れた木の床に間抜けな音を立てて落ちていく。
いじめに遭っていた昔のように、日向の耳に届く音はひどく遠かった。
声も届かない分厚い透明な箱の中で、向井の背を見ているように感じている。
「ようやく家に帰ってこれたような気分なんだ」
向井は色褪せた青のカーテンの隙間から窓の外を覗きながら続けた。
「誠大が突然俺を避け始めてから、ずっと答えを探してた」
向井の言葉に、日向は動けなくなった。
強く瞑った目の裏に、外に世界を広げようとしない “ヒーロー”に見てしまった醜さに怒りを抱いた己の姿を見る。
「弱かったんだ。龍に自分の弱さを押し付けたのは俺自身なのに、それをどうして超えてくれないんだと、龍に責任転嫁してた」
右腕で頭を抱えるように俯き、
「あの頃俺の中で龍は俺自身でもあったから、まるで自分自身を見ているようで、見ていられなかった。いや、それが自分だと受け入れられなくて逃げたんだ。許してくれなんて思っていない。ただ謝らせて」
「謝る?」
向井はカーテンを乱暴に閉めると、しかめ面で日向を振り返った。
それには驚きも、悲しさも含まれているように見える。
「やめろよ! 誠大まで、そんなつまらないこと言うのか? 俺に気を使っているだけなんだろう? そんなことしなくていいんだ、昔のままの誠大でいいんだよ!」
まだ目尻を涙で滲ませたまま、日向は向井の激情に首を傾げた。
言われている意味が上手く掴めない。
「俺たちはお互いがお互いの半身だったはずだ。あの日の約束を忘れたわけじゃないだろう?
いつか絶対に俺たちの世界を作り上げる。ずっと、早く実現させてやりたいって思ってたんだ。それにはどうしても俺がもっと強くならなきゃいけなかった」
向井はようやく日向から目を離すと、代わりに硬く拳を作り、腕の筋肉を隆起させた。
「“そこ”に辿り着くにはどうすればいいのか、俺が迷っていたから誠大は離れていったんだろう?」
やくそく、と口の中で呟いてみて、日向は足の爪先から血液が吸い上げられていくようなショックに襲われた。
そして、以前、こうして同じように「やくそく」と復唱したことがあるぞ、と目を泳がせる。
何だ、何だったか、と眉間の皺を深くさせていくうちに、それが坂下に学校のベランダから落とされ、病院のベッドの上で目が覚めた日に向井と交わした約束だったことを思い出した。
なぜ今までそのことを忘れていたのだろうか。
日向は思わず、震える自分の手を見つめた。
あの時、まだ意識は朦朧としていたが、この手で強く龍の手を掴んだじゃないか、と思う。
あれはもう死んでしまいたいとさえ思った自分が最後に掴んだ希望だった。
はずだった。しかし忘れている。
その後すぐに中学に入り、自分が主役の毎日が突然始まったことで、それまでのいじめに遭う自分を初めからなかったものとして殺したからだ。
そのとき、俺の中で龍も死んだ、いや、殺したんだ、俺は。
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