第十二章 監禁 四
「ほんとはさ」
日向が女の手足に手を伸ばしかけたところで、向井が背を向けたまま口を開いた。
「このタイミングでバレるつもりはなかったんだけど」
日向は中途半端に屈んだまま動きを止めて、息も止めた。
いや、止まってしまったといったほうが正しかった。
目の前の白く、肌理の細かい肌に体温を感じる。
まるでマネキンが転がっているセットのような目の前の世界が、日向の中で否定できない現実となって降り注いでくる。
「バレる?」
膝をつき、女の尻のあたりにある結び目に目をやり、その構造を把握しようとしながら日向は問うた。
「ここは、何なんだ?」
向井はようやく日向の方に向き直ると、女の身体を忌むべきものを見るように一瞥した。
そして日向を見て口元を緩めると、「俺の隠れ家だよ」と悪びれない様子で口にした。
「隠れ家?」
鸚鵡返しをする日向に屈託なく笑いながら、
「やっと誠大を迎え入れる準備が出来たんだ」
日向は立てた片膝に額を押し付けた。
向井が何を言っているのか、まるで分からないのだった。
目だけで女を盗み見ると、女は全てを諦めたように動くことを止め、瞼を閉じていた。
意識を失っているのだろう。
こめかみの辺りが赤くぼっこりと腫れている。
日向は反射的に眉根を寄せながら、向井に殴られたのだろうかと思った。
白々と部屋を照らす蛍光灯の明かりが、女の静脈の青を非情に浮かび上がらせている。
歳の頃は二十代後半だろうか。
ベリーショートの髪が女の頭の形を強調させていて、女が生きた人間であることを訴えかけてくる。
日向は顔を上げ、女の綺麗な形の肩甲骨に焦点を合わせながら呟くように言った。
「これがその準備だっていうのか」
「邪魔が入ったことを怒ってるのか?」
向井は真顔になると、唇を噛み、悔しそうに吐き捨てた。
「まさかこんな女が一人で、ここまで尾けてこられるとは思わなかったんだ」
向井は言いながら女をきつく睨み、何かを思い出した様子で作った拳を震わせた。
「何がどうなってるんだよ」
日向は顔を上げ、畳についた両膝に両手を乗せ、項垂れた。
「この女性をこんなにしたのは龍なのか」
言葉は発さず、日向を正面から見つめた向井は肩を竦めてみせた。
その表情からは何も読み取れない。
だが日向は自分の身体の震えをいよいよ止められなくなった。
向井から零れだしている強い凶暴性が、以前、「正義の力」だと思ったものに酷似していることに気付いたからだった。
向井は昔と変わってなどいないじゃないか、と日向は唇を震わせた。
向井へ抱いた憧れや、彼から突然離れた後ろめたさが、強くなる凶暴性にフィルターを掛け、目を逸らさせていただけだったのだ。
この一連の流れは全て必然だったのかもしれないと、日向はこれまでしてきた己の憶測の愚かさに脱力した。
(向井はあの凶暴性を、長い間育て続けてきていただけなのだ。俺が仮面を付けて、嘘の自分を演じながら、まやかしの充実を得ていた間、ずっと)
だが思ったところでどうすることも出来ない。
しかし女を見下ろせば、心は怒りと恐怖に塗れていく。
「何でこんなことしたんだ。そもそもこの女性は誰なんだ? この女性が龍に何をした」
胃が持ち上がるような感覚の中で、日向は出来る限り落ち着いて現状を飲み込もうとした。
パニックになってはいけない、と思う。
それは日向が小学校時代に経験したいじめの中で得た教訓だった。
パニックは悪魔の好物だ。むやみやたらに与えてはいけない。
それよりも、何故向井がその凶暴性を膨らませていったのか、その契機になっているのは自分なのか、その理由を早く知らなければと日向は焦った。
「どうしたんだよ。そんなに気に入らなかったのか?」
日向の怒鳴り声に目を見開き、心底驚いた様子で、
「そいつは警察のイヌだよ。家からついてきた」
警察が犯人像を絞りきれていないのでは、と不安を覚えていた日向は向井の答えに僅かに安堵した。
だがそれは同時に、ここ数日で起きた連続殺人事件の犯人がやはり向井であったことも示唆している。
「実家から、ここに来たのか」
「警察を撒くのには、正直骨が折れたよ。でも桜塚アリサって女が陽動してくれて助かった。誠大に紹介したい奴なんだ、そいつ。お前のことが好きらしいよ」
「桜塚?」
「北高の三年。あの女もきっと誠大にとってかけがえのない存在になると思うぜ」
向井はこれまで日向が知っていたものとは違う、陽気な笑い声をさせて言った。
日向は思わず向井を凝視しながら、「こいつは誰だ」と思った。
その声は、低く湿った穴の底から聞こえてくるようなものではなく、まるで別人のようだったのだ。
「そんなことより、龍」
日向は一度大きく息を吐き出し、慎重に言葉を続けた。
「何で警察に追われたりしたんだ」
「俺は追われたんじゃない。低俗なあいつらは高尚なものが理解出来ないだけなんだ」
「高尚? 何言ってるんだよ」
「だからさっきから言ってるじゃないか、準備が出来たって。誠大の為に、俺は新しい世界の仕組みを用意したんだ。とても高尚で、とてもエキサイティングなものだよ」
「龍が何を言っているのか、俺にはさっぱり分からない。でも」
日向は未知のものに震える声を飲み込み、一息つくと叫びだしそうな自分を抑えて続けた。
「全部一直線に繋がるんだろう? 龍の言う“新しい世界”と“俺を救う”ってこと、そして俺たちの周りで起きた非日常は」
「俺はお前の、その動物的な勘の鋭さが好きなんだ」
向井はそう言って歯を見せて笑うと、突然女に向けて人差し指を向けた。
「手伝ってくれ。風呂場へ連れて行く」
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