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  Flow 作者:森カラ
第十二章 監禁 三
 一時間程が経って、八畳の部屋の真ん中に敷かれたベージュのラグから日向は立ち上がった。
耳を済ませても、何の音もしない。

日向は爪先を立てて忍び足で扉に近づき、静かに耳を当てた。
耳に響く自身の心臓の鼓動が落ち着くと、扉の向こう側から規則的な呼吸音が聞こえてきた。

澄香の寝息だった。
泣き疲れて、そのまま眠ってしまったのだろう。

思いながら日向はそこからゆっくり離れ、窓の鍵を開けた。
柔らかく冷たい風が部屋に入り込んできて、ドキリとする。

日向は部屋のものが風に揺すられ、音を鳴らさないのを確認すると、黒いジーンズの尻ポケットに手を当て携帯電話を確認し、窓枠から足を出した。

窓枠のすぐ下には一階の大きな出窓の庇になっている小さな屋根がある。
日向はそこに慎重に両足を下ろすと、部屋を振り返った。
そしてまるで澄香の心の隙間を掻い潜るような行動に、強い罪の意識を感じながら窓を閉めた。

 屋根から飛び降り、家の周囲を囲む芝生の上に着地すると、日向はすぐに走り出した。
走れば駅までは十分ほどで着けるだろうと、バスに乗るのももどかしく走り続ける。

もう家は振り返らなかった。
向井まで続く大きな暗闇を切り裂くように、ただ腕を振り、前に進んでいく。


 送られてきた地図の場所は、都心から電車で二時間近く掛かる地方の駅から、さらに二十分ほど離れた所にあった。
 携帯に送られた地図を繰り返し見たが、日向は向井とその場所に何の関連性も見つけることが出来なかった。

周囲には工場や古めかしい団地があるばかりで、目立つものは何もない。
団地も四区画くらいに分かれた平凡なものだが、部屋から漏れている電気はまばらで、外の駐車場に停まっている車の数も少ない。

日向はその脇を通り過ぎながら、ここだけ時間が止まってしまっているみたいだと思った。
近くの雑木林は今にも団地ごと飲み込もうと、その鬱蒼としたからだをしならせている。

人の生活の気配は微かに残っているばかりで、日向を奮い立たせてくれるほどの力はなかった。
だが日向は何とか足に力を入れて、コンクリートを蹴り上げる。
そうでもしなければ、すぐにでも立ち止まってしまいそうだった。

 地図に記された星印は、そんな一角に建っている、今にも廃墟になりそうな二階建ての木造アパートだった。
部屋数は八部屋といったところか、日向は遠くからそのアパートを眺めながら、築二十年くらいはいっているかもしれないと思った。
一見すると普通の一軒家が横に伸びたような外観をしているが、奥の方は木々に遮られ、街灯も全くその役目を果たしておらず、よく見えない。

 その八部屋のうち、明かりは一室しか灯っていなかった。他には人が住んでいる気配もない。
日向はそれを不審に思いながら、アパートの周囲を漂う退廃的な雰囲気が、内に籠もり始めた頃の向井に似ていると感じる。

ゆっくりとアパートに近づき、「かすみ荘」と手書きで書かれた板を見つけた。
蔦が絡まった外壁や、膝ほどまである雑草に侵食されている門扉周りに日向は改めて生唾を飲んだ。

 冬の夜は濃さを増し、まだ八時を過ぎたばかりだったが、町はすっかり夜に支配されている。
日向は錆び付いた門扉を通る前に、尻から携帯電話を取り出し、慣れた操作でメール作成画面を開いた。

井川にメールを送るつもりだった。
向井の真意はまだ分からなかったが、こんな辺鄙な場所に呼び出された時点でそう簡単には帰れないだろうという確信が日向にはあった。

  ごめん。

 それだけ打ち込み、少し迷う。
そして携帯電話の眩しい光に照らされながら、どうして間違ってしまったのか、と強く自問した。

「俺がちゃんと向き合っていれば」

 自責の念に駆られて小声で呟いたが、それと同時に日向の胸の内に恐怖が広がった。
まるで嵐がやってくるのを示唆するような速度で、それは雨雲のように日向を覆い尽くす。

その恐怖の中心にあるものは、紛れもなく向井だった。
先に裏切ったのは自分だというのに、向井が自分を完全に否定するのを想像しては恐怖を覚えている。
そしてその弱さを覆うために、井川を引っ張り出したのだ。

 日向は自分の語彙の少なさを呪った。
井川が大切な、「友」と呼べる存在に変わっていたことにようやく気付けたのに、そんな彼に伝える言葉がたった三文字だけだとは。
気持ちに到底釣り合わない、使い慣れた言葉の持つ軽薄さに日向は愕然とした。

 結局それ以上何の言葉も出てこず、日向はその後に向井の送ってきた地図と、連絡があるまで絶対に来てはいけないということ、それからもし自分からの連絡が途絶えたら澄香のところへ行ってやってほしいという旨の追伸を書き足した。
複雑な感情全てを振り切るように乱暴に送信ボタンを押し、そのまま向井に電話を掛けた。




 指定された通り、唯一明かりの灯っていた角部屋の二○四号室に入った日向は完全に言葉を失った。
目の前で、全裸の女が縛られて転がされていたのだった。

「早くドア閉めろって」

 向井の抑揚のない声に促され、日向はようやく硬直していた身体を動かした。
部屋は一DKで、向井はドアを開けてすぐの簡素な台所に背を向け、六畳ほどの部屋の中心で胡坐を掻いている。

傍らにはノートパソコンが置かれていた。
また部屋の片隅には女の服と思われる、グレーのスーツや下着が無残にも切り刻まれて寄せられている。

「ちょっと待って。何だよ、これ」

 蹴り一つですぐに壊れてしまいそうな扉を閉め、口元を歪めて短く息を吐いた。
目の前の状況を上手く受け入れられず、それが苦笑となって現れる。

改めて畳の上に転がされた女を日向は見た。
口にはガムテープが二重に貼り付けられていたが、大きく上下する胸を見て、生きてはいるのだととりあえず安心する。

だが一緒に縛られた手首と足首は皮膚が擦れ、血が滲み、真白いロープを所々赤く染めていた。
それに突き動かされるように、日向は飛びかかる勢いで女に近づいた。
拘束を解くつもりだった。



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