第十二章 監禁 二
気だるい顔をした女子高生や、目の前の何かに急かされているような顔をしたサラリーマンが、日向の脇を迷惑そうに通り過ぎていく。
日向は動かなくなった足を目立たないように、だが強く叩いて、締め付ける胸の痛みに耐えた。
身体に張り付いていた虚栄が剥がれていく。
「独りだ」と思った。
そして、偽りが崩れ落ちた自分を無力だと思う。
日向は目の裏に映った理想の世界だけを追って、手探りでここまできた毎日を思い返した。
足が小さな一歩を踏み出す。
日向の足は、通い慣れた自宅への道を選んでいた。
「俺が勝手な行動を取り始めたからなのか」
日向は呼び掛けるように呟きながら、井川家とは逆の方向へと歩みを進めていく。
問いかけても返ってくる言葉はもちろんない。
だが日向は俯き、歩みを速めながら、堅く強く繋がっていると深く安堵し、正義を味方につけて救われた顔をしていた自分自身を脳裏に見ていた。
そしてその繋がりを身勝手に捨て去った、過去の自分を頭の中で何度も殺した。
***
携帯電話が日向の手の中で、メールが届いたことを知らせるバイブ音を響かせながら暴れ始めた。
突然のことに日向は驚き、バランスを崩して出窓から落っこちた。
暗い部屋の天井を光の波が揺れて、それを乱すように階下から大きな音がした。
それはどんどん日向の自室に近づいている。
日向は縮む胃を押さえながら、取り落としてしまった携帯電話を拾い上げ送信者を見た。
向井だった。
「誠大! 何やってるの!」
日向の部屋の扉を拳で叩く母親、澄香の金切り声が二階の廊下に響き渡った。
日向は震える手で強く携帯電話を握り締め、「何でもないって」とまるで自分に言い聞かせるように返した。
「もうやめてちょうだい。お母さんをこんな気持ちにさせないで。誠大はお母さんを心配させるような子じゃなかったじゃない」
扉に凭れ、頭を押し付けているような摩擦音が日向の耳に届く。
日向は扉に近づきながら、音を立てないようにゆっくりと折り畳み式携帯電話を開いた。
「どうしてあなたの所へ警察が来るの。それに向井君のお父様、お亡くなりになったんでしょう? あなた昨日どこにいたの。どこにいたのよ!」
まとまりのない問いが矢継ぎ早に扉を突き破って飛んでくる。
溢れる感情を制御できない澄香は、声を張り上げる度に扉に身体ごと打ちつけた。
日向は手の中で光る「向井龍之介」の文字からようやく目を離すと、痛みに耐えているときのように眉間に皺を寄せながら、口を大きく開けて静かに呼吸した。
「母さん、心配しないで。僕は大丈夫だから。母さんを心配させるようなことは何にもないんだよ」
「でも警察が来たわ! あなたは帰ってこないし、お父さんはいつだって頼りにならないし、お母さんにどうしろっていうの! もう分からない! 誠大だけなのよ、お母さんにはもう!」
澄香は日向の声が聞こえていない様子で捲くし立てる。
日向は母を見つめるように扉の前に立ち、隔たれたその先を見据えた。
そしてようやく携帯に届いた向井のメールを見る。
「GPS」の文字が日向の目に飛び込んできた。
文字の下には長いリンクが貼られている。
それにカーソルを合わせ、恐る恐るクリックすると数秒の後、画面一杯に地図が表示された。
その中心には星印があり、日向はその場所に自分が呼ばれていることを瞬時に悟った。
「黙ってないで何か言ってよ、誠大! お母さんがこんなに不安なのに、あなたばかりが好き勝手して、放っておくっていうの!」
「母さん」
日向はその地図をもう一度しっかりと見ると、何かを決心するときのような目をした。
「間違いだったって、分かっちゃったんだ。間違ったまま歩き続けたら、余計に迷子になるかもしれない。だから僕は戻って、探そうと思う」
「分からないことを言っていないで、大人しくしていて! もうお母さんを一人にしないで!」
「母さん、ごめん。母さんが抱えているものは、分かってるよ。でもはぐれた場所が分かってるから、僕はどうしてもそこまで戻りたいんだ。きっと母さんもいつか、それで良かったって言ってくれると思うよ」
日向は神経質な母親が縛る家から逃げ出したいと、いつも願い続けてきたことを懐かしく思っていた。
自分が外へ出て、人と共存したいと思ったときからその思いは薄れていったのだったか。
煩わしい気持ちはまだあったが、彼女の抱えた闇が見えていないわけではなかった。
もう“外”へ出る気力を失ってしまった彼女には、自分しか頼るべき人間がいなかったことを日向は痛いくらい分かっている。
完全な闇を手に入れた夜を背にして、日向はドアノブに手を伸ばした。
銀色の冷たい取っ手を握って、ゆっくりと下に降ろしてみる。
「出させやしないわ」
澄香の冷たい声が扉の隙間から流れ込んできた。
日向はそれに構わず扉を引いたが、それは期待に反してビクともしない。
いつの間にか鍵が掛けられていたのだった。
日向の自室は外側からしか開かない作りになっている。
コインを使えば簡単に開けられる鍵なのだが、部屋内にいる分にはお手上げだ、と日向は苦笑した。
「母さん、僕はどこにも行かないよ。帰る所はここしかないんだから」
日向は穏やかに呼び掛けたが、澄香が鍵を開けることはない。
日向はまるでこの部屋が澄香の心の中そのもののような気になった。
けれど行かねばならない。
日向はまだ開いたままの携帯を強く握り締めて繰り返す。
行かねばならない。
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