第十一章 追尾 八
年季の入った花柄の玄関マットを過ぎ、神木はそのまますぐのところにある階段を上って井川の自室に通された。
井川の部屋はどこにでもある高校生男子の部屋と言った様子で、八畳ほどの立派な個室だった。
無機的なベッドに背の高い組み立て式の本棚が二つあり、机にはノートパソコンやウォークマン、小型ゲーム機などが無造作に置かれている。
部屋の中央には小さな円卓があり、その上にはズジスワフ・ベクシンスキーの画集が置かれていた。
ページには崩れゆく廃墟の画や、痛々しさと死臭を纏ったようなヒトが、何かを訴えようとしているような画があった。
神木はそれを一瞥し、その気味の悪さからすぐに目を逸らしてしまった。
その一つの画集によって、ただの平凡な部屋は終末的な絶望と破壊をそこここに撒き散らした、まるで戦場の一角のように変わった。
「面白い趣味だな」
床に投げ出されていた本や漫画を片付けていた井川は、神木の指差す画集に一度目をやると、
「向井が好きなんだそうです。昔友達から借りたこと、すっかり忘れていて。ベクシンスキー、知ってますか?」
いやと否定し、神木は画集が目に入らないように円卓から離れて座った。
その様子を見て、井川は優しく笑んだ。
「僕も最初見たときは気分悪くなりましたよ。でも刑事さんが向井を知りたいというなら、その画集を見るのが早いかもしれない」
井川は画集を手に取ると、それを閉じてベットの上に放り投げた。
そちらに目をやった神木は、画集の表紙に先ほどの中身とは打って変わって、光り輝く美しい青が描かれているのを見た。
そして確かに向井の作り上げた死体には、破壊と創造を統べる自分に酔っているような雰囲気を醸し出していたのを思い出し、それは同時に鎧塚にも覚えた感情だったということに心臓を叩かれた。
「友達が言ってたんです。向井の部屋にあったベクシンスキーの描いた絵を見ていたら、頭の中に向井が浮かぶんだって」
井川はそう言うと、勉強机の椅子の背を前にし跨って神木の方を向いて続けた。
「……向井は捕まるんですか?」
「分からない」
「分からない状態で、僕なんかのところに警察って来るもんなんですか」
神木の頑として変わらない表情に、井川は声を上げて反論した。
その突然の焦りを含んだ苛立ちに、神木は辟易した。
「警察は何をやっているんですか。とうとう向井の父親まで殺されたんでしょう?」
「知っているのか」
「知っていますよ。学校にいる友達から、朝メールを貰ったんです。学校は大騒ぎだって」
井川は一息つくと、背凭れにかけた腕に額を突っ伏した。
「次は僕だ」
神木は最後の一言に胃が収縮するのを感じた。
簡単に問いを投げることが出来ず視線を落とすと、神木の目の先に包帯の巻かれた井川の足首が映った。
そしてそれが先ほど引き摺っていた足だと分かる。
「その足はどうしたんだ」
神木の問いに僅かに身体をビクつかせると、井川は小さな呻き声を上げ始めた。
それは身体を突き破ろうとするものと戦い耐えているようにも、迷いの固まりのようにも見えた。
神木は中腰になって何度も井川を安心させようと声を掛けた。
大丈夫だから話してみろと説得するうちに、ようやく井川は顔を上げ、救いを求めるような顔で正面から神木を見つめた。
その額は汗でじっとりと濡れており、怪我のせいもあるのか、熱っぽく赤くなった顔に神木は心臓を鷲掴みされたような痛みを味わった。
「昨日でした。数学の斉藤先生のことで休校になって、僕は向井の所へ行く決心をしたんです」
「何故」
「突然連絡の取れなくなった大事な友達が、向井の所へ行っている可能性があったからです。だから僕は、助けに行こうと思った」
「その友人とは日向誠大のことだな」
神木の瞬時の返しに井川はしばらく言葉を切って、「やっぱり知ってるんですね」と力を抜いて頷いた。
「助けに行くって、どういうことだ。龍之介とは仲良くないのか」
「これまで向井を友達だと上手く思えたことはありません。その日も学校の裏掲示板に向井が犯人なんじゃないかっていう書き込みがたくさんあったのを見て、やっぱりという気持ちを強くしていました」
「掲示板?」
「生徒しか知らないような、小さな掲示板です。そこには斎藤先生と向井の間にあった諍いについて書いてあって、数人はそこから向井が犯人なんじゃないかと推理を楽しんでました」
神木は昨日の捜査本部会議で上がった匿名電話の報告から、ズルズルと向井龍之介という少年の名前が出てきたことを思い出した。
そして龍之介の自宅へ向かい、古寺から龍之介の狂気について聞かされたことを反芻する。
ラーメン屋での一件の後、すぐさま向井龍之介の別宅へと向かったが、その日龍之介は帰らなかった。
その上途中で張り込み交代となってしまい、龍之介との接触を逃したことを思い出した神木はつい歯噛みした。
「そして昨日初めて、向井の置かれている家庭状況について多くのことを知りました。それは刑事さんもよく知っているんでしょう?」
「両親は離婚、父親は蒸発し、龍之介は母親と別居しているそうだな。君は古寺に会ったんだろう。大変だったな」
井川は「ああ、あの人」と目の奥にその姿を思い返している様子で、
「その古寺さんって人が向井の住所を教えてくれたんですよ。そういえばあの人も、異常に向井を恐れてたな」
「腹に龍之介につけられたという深い傷があった。私怨によるところが大きいようだが、恐れているのは確かだろう」
神木の告白に井川は禍々しいものをみるような顔をして目を逸らした。
組んだ両腕は力が入っており、竦んだ肩は緊張している。
神木は井川の尋常でない怯えを見て、焦らず先にこちらに来たのは正解だったかもしれないと感じた。
「向井の別居先に着いてすぐ、誠大が魂を吸い取られたような顔をして出てきました。それから僕は初めて、向井について詳しく聞けたんです」
一点を見つめて呆然としたまま、井川が呟いた。
それから神木は日向が以前いじめに遭い、それを向井龍之介に救われ、それから龍之介を正義のように思っていたことや、内に引きこもっていくタイプの向井からそのうち少しずつ脱却し、外の世界を知ったことで龍之介を疎ましく思い始めたことを聞かされた。
そして龍之介がそんな日向を「救う」と言い出しているということを再び聞き、ラーメン屋での盗み聞きであやふやだった点がようやく濃くなっていくのを神木は感じていた。
「そして向井がゲーム内で僕のアバターを作り、殺しているという話を聞かされました」
ズジスワフ・ベクシンスキー(Zdzisław Beksiński)は、ポーランドの画家、写真家、芸術家。(wikipediaより)
好きなのです、ベクシンスキー。
でも解釈は適当です(苦笑)
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