第十一章 追尾 七
神木は北上署には戻らず、そのまま一人の少年の自宅へ向かっていた。
その少年とはラーメン屋で日向誠大と話をしていた井川倖という少年だった。
出来ることなら向井龍之介に直接接触を取りたいと強く望んでいたが、それは所轄勤務の神木には叶わないことだった。
また、今向井に一番近い所にいると思われる日向誠大への接触は非常に危険だと思われたためであった。
一方でラーメン屋での話の限りでは、井川という少年に危険がないとは言い切れない状況も左右していた。
このまま放っておいて取り返しのつかないことになっては、という焦りから、神木は迷わず井川の元へ車を走らせることを選択した。
しかし神木は井川の身に危険が及ぶ可能性のことを、二十年前の事件の全てを知っている三谷にさえも申告していなかった。
独り占めしたかったといえばそれまでになってしまう。
だが罪を背負い、歩き続けると決めた神木は、どうしてもこの事件を肌に刻み込みたいと願っていた。
切り刻まれ、元の居場所に帰れなくなろうとも細部まで知り尽くしたかったのだった。
既に覚悟は決めている。
自分が滅茶苦茶なことをしているという自覚は勿論あった。
だが急く気持ちが神木のストッパーを吹き飛ばしてしまっていた。
――倖。俺は龍の家で、お前が殺されているのを見たんだ。
――僕が、次のターゲット? じゃあ、僕も、斉藤先生のように殺されるのか?
突然店内で声を大きくした日向と井川の声が神木の内に蘇る。
日向の言っていた「龍之介が日向誠大を救おうとしている」というのは一体どういうことなのだろうか。
神木は昨夜睡眠を奪ったこの問いに未だ縛られ続けていた。
そして「龍之介が井川をゲーム上で殺していた」という日向誠大の証言だ。
そのゲームとは一体何のことなのだろうか。
そしてどうして井川が狙われる必要がある?
神木は自分にとって遠い存在である“ゲーム”という単語に、どうしても近づくことが出来ずにいた。
その架空の世界の詰まった箱に焦点を狭めることが出来ない。
これは賭けだ、という感情を強くしていた。
単独行動にまで出た今、そんな頼りない玩具に精魂を注いでしまってもいいのだろうか。
神木はまるで向井龍之介の掌で踊らされているような不快感を覚えながら、あちこちに浮遊してる点と点がどうしたら一本の線となるか、ただひたすら脳を動かし続けていた。
国道から逸れ、住宅街の中へ入っていく。
まるでトンネルの先の見えない未知の世界に踏み込むときのような、不安と興奮が神木の心臓を高鳴らせている。
雨もようやく止み、まだ乾いていない黒い道路だけが雨が降っていたことを知らせていた。
雨に濡れたアスファルトの臭いが立ち上っていて、開いた窓の隙間から流れ込んできている。
時折それにフラッシュバックのように、遠い昔に理恵の膝から見た庭の真っ赤なサザンカの花弁が瞼の裏にチリチリと光っては消えている。
神木は頭を強く振り、映像を追い払うと真っ直ぐ続く道を見据えた。
そのうち自分の世界が以前より色濃く、息づいているのを感じ始めていた。
脈を打ち、熱い息を吐いている自分の中で生命力が濁流となって暴れているのを感じていたのだった。
指先にまで張り詰められた緊張が、神木に着実に終焉に向かっているという根拠のない手応えを与えていた。
井川の自宅は平凡な建売住宅が並ぶ中にあった。
色褪せたオレンジ色の屋根に、薄汚れたクリーム色の壁は印象が薄く、猫の額ほどの庭は荒れ気味だった。
神木は車を止め外に出ると、井川倖の自室があるだろう二階の窓を見上げた。
時刻はまだ昼の十二時を回ったところだった。
井川はまだ学校から帰ってきてはいないだろうが、北校生徒の下校は早まるかもしれないと考えながら、神木はインターフォンに手を触れた。
ピンポンと軽快で歯切れの良い音はすぐに消え、家の中がざわついた気配が外まで流れてきた。だが音沙汰はない。
神木は間髪入れずにもう一度、そして今度は二度続けてインターフォンを押した。
しばらくして物音がしたと思うと、門扉からすぐのドアが数センチ程開いた。
隙間から外を覗くようにして中から現れた人物に目を凝らした神木は酷く驚いた。
「どちら様ですか」
弱弱しい声で辛うじて言った声の主は、井川倖本人だったのだった。
神木は口を開けたまま言葉を失っていたが、ようやく会釈し警察手帳を掲げ、
「覚えていないかな? 一度、北高の職員室前ですれ違っているんだが」
神木の言葉と警察手帳に困惑した表情を浮かべていた井川だったが、何か思い出したのか俯いていた顔を上げると、一度ゆっくり深く頷いた。
「分かっていると思う。どうしても君に、向井龍之介のことを聞かせてもらいたいんだ」
神木は懇願するように言い、頭を下げた。
扉の取っ手を握ったまま、身体全部出さずにただ黙り込んでいた井川は、小さく咳払いをすると神木に向かって言った。
「向井が犯人なんですか」
緊迫したその声に神木は頭を上げ、「まだはっきりとは分からない」とだけ答えた。
だがしばらくして井川は玄関ドアを大きく開け、外に出てきた。
北高の制服を着ていて、異様な雰囲気がある。
そのまま玄関前に作られた二段だけの階段を降り、さび付かせた音をさせて門扉を開け放ち、神木を中へと促した。
「どうぞ、中に入ってください」
憔悴しきった顔立ちで、力なく笑って続けた。
「ただ僕は何も知りませんよ。僕も参ってるところですから」
「俺でよければ、いつだって力になるぞ」
神木は井川の死んだような目を真正面から見つめ、力強く言った。
井川はそれに何か言いたそうな表情をして見せたが、結局何も言わずに背を向けた。
井川の起こした風に彼の家の匂いが混ざっていて、それを受けた神木は改めて少年を守るはずの日常が歪んできていると感じた。
敷地内に入って井川の後に続いた神木は、すぐに奇妙な違和感に気付き立ち止まった。
何かと思い左右を探した神木の目に入ったのは、目の前で右足を引き摺る井川の姿だった。
「足、怪我しているのか」
神木の独り言とも取れる呟きに、井川は玄関ドアを開けながら「ええ」と続けた。
「ゲームが始まったんですよ」
淡々と言い、家の中に消えてしまった井川に続くことも出来ず、神木は動けなくなった。
こじんまりとしたこの家には似合わない、褪せた金色の大振りな取っ手を握ったまま、昨日のラーメン屋での一件の後、既に何かが行われたというのかと頭痛に似た頭重感に顔を歪めた。
事態はカウントダウンを始めているのかもしれない。
神木は思いながら扉を開けた。
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