第十一章 追尾 五
結局神木は、不安定な村上を家に帰すことにした。
村上は最後まで抵抗していたが、その勢いの無さが皮肉にも村上の著しい変化を完全に証明してしまっていた。
運転を変わった神木は、まだ青白い顔をした村上を気にしながら間を持て余していた。
憎まれ口を叩きながらも、可愛がってきた村上に掛ける言葉がないというのは初めてのことだった。
それにどうしても桜塚アリサという存在が脳裏から切り離せず、村上のことだけに意識を集中させることが出来ないというのも本音だった。
結局一言も交わさないまま、村上の住む女性専用マンションに着いてしまった。
こじんまりとしたマンションの外壁は淡いベージュ色に塗られていて、可愛らしい印象がある。
普段なら、見るからに体育会系の村上を対比させてからかっているだろう、と神木は思った。だが今は何か違う。
無意識に自分の中にあった村上の場所が消え失せているのだった。
神木は噛み合わない波長を嫌い、乱暴に頭を掻き毟った。
「神木さん、迷惑掛けてしまって本当にすみません。お言葉に甘えさせてもらって、今日一日、お休み頂きます。送ってまで頂いて、ありがとうございました」
少し呂律の回らない調子で村上が言った。
神木はやはり何も言えずに、会釈をして車を降りていく村上の背をただ目で追っている。
ドアガラスから見える村上は頼りなく、そんな彼女を守ろうとするマンションはあまりにも脆く見えた。
柔らかそうな髪も項垂れた肩も、村上を形作る全てに希望が感じられない。
そこまで思って、初めてはっきりと村上を一人の自立した女として認識している自分に神木は気付いた。
狼狽も苛立ちもなく、ようやくあるべきものがあるべきところに納まったというような、晴れやかな納得が神木の中心を走った。
去っていく村上の背中はすぐに弱い雨と同化し、輪郭はぼやけ、ついにオートロックの扉の向こうに影も残さず消えてしまった。
もう手が届かないのではないかという不安が神木の心臓を大きく揺らす。
その揺れの中で、神木は「ああ」と漏らし、頭を抱えた。
そして「あるじゃないか」と思う。
今俺が彼女に言わなければならないことは山ほどあるじゃないか。
答えも許しもいらないと決めた自分に出来ることは、何があろうと進み続けることだけではなかったか。
神木はしばらくして携帯電話を取り出すと、マンションの前に路駐したまま村上へ発信した。
四回目のコール音の後、「どうしました?」と憔悴した声が神木の耳小骨を震わせた。
「何を悩んでる?」
神木の搾り出すような声に、村上は込み上げて溢れ出てしまいそうなものを何とか喉元で止めた。
だが永遠と続いていきそうな沈黙に、膨れ上がった感情はついに決壊し、言葉になっていく。
「この場所に縋り付いていた自分を、どうしても許せないんです」
「さっきの桜塚の話が原因か」
「小娘の話に、まんまと翻弄させられてるんですよ」
「無理をするな」
自分を茶化すように吐き出した村上は痛々しく、彼女がずっと縋り付いていた軸がぶれだしたように感じさせた。
手を伸ばしても掠めるだけで、あやふやなものに変わっていく村上を神木は掴み、離したくないと強く思った。
「確かに、私はいつも“意味”で自分を縛っていた。あの時、本当は全てを殺して壊してしまいたかった。そうしなかった自分の、生きる意味をずっと求めていました」
大小様々な刃物で、己の前に立ち塞がる気に入らない全てを切り刻んだ鎧塚の姿が神木の脳を焼き切っていく。
そしてぼうとなった頭に、鋏を握り締め、あるべき場所を探すまだ少女だった村上の姿が浮かび上がる。
神木はその想像の産物に近づき、触れる代わりに言葉を探した。
「見ていてくれないか」
自分の内から出てきた言葉に少し戸惑いを覚えたが、神木は電話の向こうで気配を消していく村上を繋ぎとめようと祈るように続けた。
「こんなオヤジが馬鹿を言っているのは分かってる。だがお前の欲しがる答えは、きっと今の俺なら見せてやれるかもしれない。だから俺を、見ていて欲しいんだ」
「ノコノコと神木さんの後を付いていくなんて出来ません。ここに逃げ込むべきではなかった。この場所に来ることが自分にとって意味のあることだったと、そう思い込むことで誤魔化してきました。自分は生きていてもいいのだと、そして他の、私と同じような誰かを止めるべきだと、そう言い聞かせて」
「何も言うな。頼むから」
嗚咽で言葉が途切れ途切れになった村上を遮って、神木は声を上げた。
「俺はお前だ。ようやくきちんと気付いたんだ。お前は、あの時の俺なんだ」
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