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  Flow 作者:森カラ
第十一章 追尾 四

「大丈夫よ。日向くんは今度の事件に巻き込まれたりなんかしないわ」
アリサは緊張を解き、村上を値踏みするような視線で見た。
「でも話を聞くのは仕様のないことなのよ。警察ってのは、そういうもんなのよ」

「分かってる」
 俯いたままだったが、落ち着きを取り戻したのが分かる声でアリサは呟いた。

それに村上が二、三度頷くと、アリサは雨に濡れたスカートの裾を弄りながら、
「でもアリサの充実を壊さないで。お願い」

「充実? 何の話?」
「こんな言葉があるわ」

 村上は濡れたアリサの瞳が先ほどよりも澄んで、まるで自らに暗示をかけているかのように強く輝いているのに息を呑んだ。
アリサは瞬きさえせず、言葉をその場に刻み込むようにゆっくりと話し始めた。

「“意味が見つからないから良き生が送れないのではなく、逆に、良き生を送れていないから意味にすがろうとするのだ”」

「ニーチェか」

 神木が素早く反応したのに、村上は驚いた。
アリサは後ろを振り返ることなくガクンと首を縦に振ると、

「ケージさんたちは、生きる意味を考えたことがある? それはとても馬鹿馬鹿しいことだよ。ニーチェの言う通り、この世界に意味なんてない。でも自分にとっての充実を感じることが出来なければ、アリサは生きていけないと思う」

「それって生きる意味がなくなっちゃうって意味じゃないの」

「違うよ!」
アリサは突然スピーカーの割れたような声で否定した。
「アリサはそんなに愚かじゃない。人生に意味を求める愚かな弱者と一緒にしないで!」

 車内がひんやりと冷やされ、どこか暗く湿った場所に飛ばされてしまったように村上は感じた。
そしてふと自分がずっと昔から意味を求めて彷徨い、だが見つからずに未だにもがき続けている現実に気づかされ、額を打ち抜かれたような衝撃を覚えた。

打ち抜かれた身体は思いの外がらんどうで、必死に詰め込み、「人生の意味」にしようとしていた日常がまやかしのように見えた。
村上の額に冷や汗が浮き上がる。

「誠大さんという存在はアリサを一瞬で満たしてしまう。それが充実なの。好きなものを愛しいと感じることに意味や理由がないように、そこにも“何故”なんてない。アリサは意味を生きているんじゃなくて、充実を生きているからよ。そんな奇跡を、ケージさんたちは何の権利があって壊そうっていうの? アリサはありもしない物語にしがみ付いて生きようとしてる醜い弱者たちが許せないの!」

 アリサの声が止み、しんと静まり返った車内に少しずつ雨の音が戻ってきた。
神木は窓を流れる雨を見て、ゆっくりと時間の感覚を取り戻しながら、「生」を叫ぶ若者の姿に面食らっている自分に気付いた。

これまで鎧塚という少年と向き合い続けてきたはずなのに、彼女ら若者の叫びに今更怯んだのだった。

「……あなたの言うような人生、私も生きてみたいわ」

 突然村上の不安定な声が雨音の隙間を縫って車内に降り注いだ。
神木は嫌な予感から反射的にルームミラーに目をやったが、残念ながら村上の表情は全く見えなかった。

アリサはブレザーから覗かせた紺色のカーディガンの袖を口に当て、激しい呼吸を繰り返しながら村上を睨むように見ていたが、一言「あんたも弱者か」と呟いたかと思うと、俊敏な動きで車外に出た。

あまりに突然のことで神木は上手く反応出来なかったが、敢えて追うことはせず、ふらついた足取りで要塞のような校舎の中へと消えていくアリサの姿をしばらく見送っていた。
彼女の姿が視界から消えてしまうと、まるで催眠にでも遭っていたような居心地の悪さを神木は感じた。

 身体を起こし、村上の肩に触れる。彼女の肩は硬直し、小刻みに震えていた。
神木の耳に奇妙な音が流れ込んでくる。
何事かと、俯く村上の首筋に顔を近づけた神木は、強い隙間風のようなヒューヒューという呼吸音を聞いた。

「おい!」

 神木は慌てて運転席と助手席の間から手を伸ばし、村上の頭を上げさせた。
神木の目に飛び込んできたのは人形のような村上だった。

血の気が引いた顔は真っ白になっており、ひきつけを起こしたときのように手足が突っ張っている。
唇は真っ青で、奇妙な呼吸が激しく鳴り続けている。
神木は村上の名前を何度か呼んだが、まるで反応はなかった。

「倒すぞ」

 神木は身体を乗り出し、運転席横のレバーを引き上げ、シートをゆっくり倒した。
少し迷い、だがすぐに村上のブラウスのボタンを二つ外した。

細い首筋が露になり、激しく上下を繰り返している胸元が強調される。
上背のある村上の身体はがっちりしているように見えていたが、思っていたよりもずっと華奢だった彼女の首筋を神木は上手く直視出来ないのだった。

 動揺と狼狽にがんじがらめになりながら、神木は何度も村上の名前を呼び続けた。
そのうち、村上の瞼から朦朧とした目が覗いて、突っ張って痙攣している両手を神木の方へ向かって伸ばし始めた。

訳も分からず、神木は慌てて両手を差し出した。
村上は両の手首で神木の骨ばった両手を挟むと、自身の口元へ持っていく。

そして神木の手で自分の口が隠れるようになると、顔を歪めてゆっくり深く呼吸し始めた。
その動作は落ち着いていて、切羽詰って苛立っていた神木を徐々に平常に戻していく。

 三分程経って、ようやく村上の呼吸が落ち着きを見せ始めてきた。
その間、ずっと手首で神木の両手を拘束していた村上だったが、やがて崩れ落ちるようにそれを自由にした。

「すみません、でした。ただの、過呼吸、です」

 途切れ途切れになりながら、だが最後まで力強く発音した。
「過呼吸」という名称を耳にしたことがあるといった程度だった神木は、安堵のため息をつきながら、拘束の解かれた自分の手が少し震えているのを村上に分からないように隠した。

「そういや昨夜もおかしかったな。よく、こんな風になるのか」
「ごく、たまに、ですよ。内緒に、してください、ね」

 神木の弱弱しい問いにフッと力なく息を漏らすと、村上は子供を宥めるように言った。
神木は倒れこむように後部座席に身体を倒すと、「正直、パニクった」と漏らした。
それに頼りなく笑いながら、村上は不自然に固まったままの手を擦り合わせた。

 神木は雨の臭いの染み込んだ、くたびれたコートの襟に顔を埋め、ざわつく胸をやり過ごそうとしていた。
不穏な空気を断ち切るように学校の鐘が鳴る。

朝からの雨は少し弱まり、空も明るくなってきていた。
だが神木たちを乗せたままの車は、エンジンを唸らせながら生温いエアコンの風で重苦しい空気を掻き混ぜ、それを益々濃くさせている。

 自分は何か大きな間違いを犯しているのではないか。
神木は思いながら、火のついていない煙草を銜えて何とか胸のざわめきを抑えようとしていた。

ふと顔を上げると、いつの間にか手を擦り合わせることをやめた村上が、まだぎこちない様子で胸元のボタンを嵌めようとしている。
神木は思わず言い訳しようと身体を起こしかけたが、意思に反してその動きは止まった。

村上の目尻から流れている一筋の涙が神木から一切の動きを封じさせたのだった。

 口に皺々の煙草を挟んだまま、神木は間抜けな顔でそれを見ていた。
見つめながら、これは誰だ、と神木は思った。

その目に映っていたのは、神木の知る村上ではなかった。
相棒だった村上が、ただの同僚でもただの後輩でもなくなっているのだった。

ましてや妻でも女でも娘でもない目の前の村上に、神木は何の言葉も持っていなかった。




むずいむずいむずいむずい……
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