第十一章 追尾 三
即座に反応した神木に、それまで大きなアクションを見せなかったアリサも素早く神木の方を振り返った。
「誠大さんのこと、知ってるの? ケージさん」
神木は匿名の電話から向井龍之介を調べる経緯で、龍之介の友人として名前の挙がった「日向誠大」という人物のことを咄嗟に思い出した。
そしてそれは、昨日ラーメン屋で苦しげに心中を語っていた少年の後姿と重なる。
そのとき、突然の落雷の如く張り上げられたアリサの声によって、神木の思考は中断された。
「どういうこと? 何でケージさんが誠大さんのことを知っているの? 教えてよ! 向井くんのパパのことで来たんじゃなかったの?」
激しい地団駄に、濡れたアスファルトから小さな飛沫が飛ぶ。
慌てて村上がアリサの方に近づこうとしたが、彼女のあまりに突然の怒りに動きを封じられてしまった。
風に靡く短いスカートや、雨に濡れてくすんでしまったブラウスのエンジ色のリボンだけが彼女を辛うじてどこにでもいる少女に見せている。
それほどまでにアリサの狼狽は異常だった。
「日向くんを調べている訳じゃないよ。ただ、向井くんのお父さんが亡くなった理由を調べる上で、向井くんと仲の良い日向くんにも話を聞かせてもらう必要があるだけなんだ」
神木は村上に目配せしながら、優しい口調で話した。
混乱し、両手で頭を抱えるアリサに村上が徐々に間合いを詰めていく。
誠大さん、誠大さんと息とともに吐き出し始めた彼女の肩を、村上が女にしては大きすぎる掌で掴んだ。
そしてそのまま車の中へと誘った。
神木は一変してしまったアリサの小さな後ろ姿を見ながら、アリサは一体何を知っているのだろうかと、先ほどから同じことばかり考えている自分に苛立っていた。
複雑化していく向井龍之介像に、また鎧塚の姿が重なる。
――お前も鎧塚と同じように、孤独の中に嵐のように激しい欲望を飼っているのか?
問い掛けてみても、疑問は胸の底の闇にすっと落ちて、消えていくだけだった。
だが問い掛け続けてしまう。
そうでもしなければ、沸々と大きくなっていく焦りに押し流されてしまいそうだった。
村上はアリサを助手席に乗せると、神木がまだ外で煙草を吸っているのを確認して、アリサに向かって手鏡を差し出し小さく咳払いをした。
アリサは怪訝な面持ちだったが、村上の強引な押しに負け、手鏡を受け取り、覗き込んだ。
そしてその中に写った自分の頬に黒い線が出来ているのを見つけて、小さく舌打ちをした。
「高校生のくせに化粧?」
「……いるよね、年取るとそういう小さなことをいちいち説教し始める人。そういう行動が、おばさんをもっと老けさせてるのに気付かないの?」
「アリサちゃんも今からそんなに黒い涙流すほど厚化粧じゃ、すぐに後悔することになるわよ」
「アリサは綺麗なうちに死ぬから関係ないもん。満たされればもうそれでいい。だから早いうちに、誠大さんと結婚するんだ」
「日向誠大と」そこまで言って、アリサに思い切り肘を殴られ、村上は咳払いして続けた。「日向誠大くんとは付き合ってるの?」
「付き合っているとか、そういう次元の話じゃないの。今はまだ、誠大さんは世界の仕組みについて気づいていないけれど、今に気付いてアリサと一体になる」
「どういうこと?」
「全ては“そうなるように”出来てるってこと。もう既に流れに乗ったのよ。だから今に気付くわ。アリサが必要だってことに」
アリサが調子を変えずに淡々と呟いたのと同時に、後部座席のドアが開いて神木が乗り込んできた。
アリサは車内に一緒に入り込んできた煙草の臭いに、遠慮なく鼻を摘んで無言の抗議をしている。
雨のせいで臭いが強くなっている。
その中から村上はアリサの言葉の意味を嗅ぎ分けようとしていた。
一体自分たちは彼女の言うところの何の流れに流されているのだろうか。
まるで仕組まれたシナリオを演じさせられているような、非現実的な感覚に眩暈を覚えていた。
だが、一方で向井龍之介に近づくごとに、昔の自分が感じていた重い現実から離され、心地良い浮遊感が四肢を取り巻いていくのに気付かぬふりが出来なくなっている。
村上は出来るだけ、これまで神木と共に見てきた現実に焦点を合わせようと努力した。
見てきた事象を再び頭の中に思い起こしながら、身体を縛る解放感にも似た痺れを必死に押し込めようとしていた。
そしてアリサの言う必然を見極めようと、鼻を摘んだままの彼女の横で車内に漂う煙草の残り香を肺の奥深くまで思い切り吸い込んだ。
「落ち着いたか?」神木は後部座席から、アリサの座っている助手席のヘッドレストに手を掛け、続けた。「どうしたんだ、一体」
「どうしたもこうしたもないよ。誠大さんを巻き込まないでよ。ホームレス状態だった向井くんのパパに、誠大さんがどうしたら関われるっていうの」
「……君は一体何を知ってるんだ? そもそも何で龍之介の父親が路上生活者だったことまで知っているんだ?」
アリサは背後から飛んでくる、針のように尖った厳しい詰問に神経質に身体を揺すり、親指の爪を噛んでいる。
真っ黒に塗りたくられた彼女の爪のマニキュアが削られ、剥がれていく。
村上は落ち着きなく動くアリサの眼球から、彼女が言葉を探していることを感じ取った。
神木はルームミラーに映った村上のアリサを見つめる目を見て、同時にアリサの不自然な緊張を見た。
龍之介の話をしていたときには何の動揺もなく、むしろアリサの方から挑発をしてきたとも言えるのに、日向誠大という名前が出た途端、まるで別人に変身してしまったようだ。
神木は静かに思いながら、アリサの中にある日向誠大への一方的な恋心をどうするべきか考えあぐねた。
下手に触れば、暴発してしまうかもしれない。
シートにゆっくりと背を預けながら、ここは村上に任せた方が賢明だろうかと考えていた。
「すまない。君にこんな事情聴取のような真似をする権利は俺たちにはないんだった」
神木は先ほどとは打って変わってふざけた調子で言い、軽く村上の肩をポンと叩いた。
村上はルームミラーを見て、神木の意図をすぐに読み取った。
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