第十章 鬼ごっこ 十四
バスに乗り、うっすらと霧の立ち込めた自宅付近に戻ってきた。
飛沫を撒き散らしながら身体の脇、スレスレを通り過ぎていく車に注意を払わねばならないのが気に障る。
自宅は国道に設置されたバス停から一本奥に入った住宅街にあるのだが、家の前を走る国道へぶつかる道は、抜け道に使われるせいかいつも車通りが絶えないのだった。
我が物顔でスピードを出していく車に泥水を浴びせられながら、僕は膝の方まで色の変わったジーンズに目線を落とし、向井家で会った男のことを再び思い出して肩を竦めた。
正面からやってくるヘッドライトが濡れたコンクリートに反射して眩しい。
ふと何に焦点を合わせていいのか分からなくなって、目を瞑り、全てのものから目を背けてしまいたくなった。
だが、瞼を打つ雨の激しさが眠りを妨げようとするかのように、僕を揺さぶり続けている。
眉根を寄せながら顔を上げると、雨で霞んだ視界の中に自宅の屋根が見えてきていた。
部屋に明るい電気が点いたときのように、突然何からも解放されたような心持ちになった。
だがその解放感は、自由を与えてくれた訳ではない。
強張った身体がいくら解されようとも、芯を蝕み始めている現実の侵食は止まらないからだ。
身体がだるく、背が丸まりだすと濡れた服が待っていたように重く圧し掛かる。
その重さはまるで僕の気持ちを代弁しているかのようで、足に絡みつき前進を妨げては重みを増していった。
平和な時を刻んだまま、時間の止まったような町の雰囲気に気圧されつつ、自宅の黒い屋根に真っ直ぐ視線を定めた。
朝、ここを走り向井の家へ向かったことがもうずっと昔のことのように思える。
一歩踏み出す毎にグシュグシュと鳴る靴を鬱陶しく感じながら、無心に足を前に踏み出し続けていた。
ようやく車の波が途絶え、乱れた水溜りの波紋が弱まってきた、その時だった。
何か、気配を感じた。
犬か、猫か、何か野生的な臭いが鼻先を掠めたような気がした。
畳み掛けるように首筋や腋の下、寒さで立ち上がった産毛にも電気が走ったような違和感を覚える。
麻痺してもう感覚のない手を軽く握り、思い切って歩みを止めてみた。
激しい動悸をやり過ごしながら首だけを心持ち左肩の方へ動かしてみたが、そのまま後ろを振り向くことはせず、すぐに正面に視線を戻した。
首を動かしたことで、耳に飛び込んでくる雨の音が不安定になり、それは体内にまで染み出した不気味な気配を容赦なく煽った。
慎重に腹式呼吸を繰り返していると、雨が様々な臭いを立ち上らせていたことに気付かされる。
しかし、先ほど感じた野生的な尖った臭いはそれに紛れる訳でなく、むしろ他の草や土の臭いとは全く違ったそれだということを僕に焼き付けてくる。
目線を少し上げると、遠くで車のヘッドライトが音もなく揺れていた。
その安心感に少し緊張が中和され、それは口元に漏れる笑みをそのままに再び僕を前進させる原動力となった。
ヘッドライトがこちらに近づくたびにうっすらと見える雨の直線は、まるでシルクのカーテンが揺れているかのように綺麗だった。
そんなことをぼんやり思うことで、何とかこの不穏な緊張をやり過ごそうとしていた。
そうしてふと全神経の緊張が断ち切られると、今度は耳元に不自然な生暖かさを感じた。
瞬間的に胃や心臓が縮み上がり、首が硬直したように硬くなった。
思わずイッと喉が詰まったような声が漏れる。
引きつる首筋をどうすることも出来なくなった。
耳に雨水を切り裂くような轟音が近づいていた。
頭の芯が熱くなり、防衛本能が働いているのか身体は必死にこの場から離れようとしていたが、筋や神経がいかれてしまったのかまるで身体が動かなかった。
拡声器で脳を直接震わせられているかのように、切羽詰った声が全身に響き渡っている。
逃げろ! 逃げろ! 逃げるんだよ!
神経が過敏になり、近づいてくる車の、回転を増したタイヤのゴムが焦げ付く臭いが鼻を衝いたような気がした。
耳たぶの辺りに、生暖かい空気が小刻みに纏わりついてくる。
先ほどまで寒さに震えていたのに、いつの間にか毛穴が開き脂汗が皮膚にべったりと張り付いているのを感じていた。
車のヘッドライトの揺れはすぐ側まで来ていて、ついさっき綺麗だと思った雨のカーテンは視界を奪う死のカーテンのように見える。
僕は、きっと心のどこかで全てを分かっていたのだろう。
この感覚は前にも一度感じたことがあった。
肉も骨も裁断されるような恐怖。
皮膚を黒く焦げ付かせ、抉られていくような悪寒。
舞い上げられる風に、なす術もなく巻き込まれていく無力感。
不意に鈍い衝撃が背中に刻み込まれた。
同時に生暖かい息が耳元から離れていく。
代わりに背後で吐き出された乾いた笑い声が雨に濡れ、一気に足元に流れ出してくるような恐怖に染められた。
視界が真っ白になった。
星が降ってきたのかと思うほど真っ白な世界の中で、奇妙なほどスローモーションに身体が傾いていくのが分かった。
海中に落とされたのかと思うほど、腕や足に絡みつく抵抗を感じる。
まるで自由にならない。
開けた口の中に雨が刺すように入り込んでくる。
僕は死ぬのだろうか。
ふとそんな呟きが脳を満たした。
突風が吹き荒れたときのように、全身に鳥肌と声にならない叫びが巻き起こり、落雷のように僕の中心に落ちた。
感情は既に崩壊しており、叫ぶ言葉も持たず、ただ涙が頬を濡らしているのをその温度で感じ取った。
やっぱり僕を殺すのか? 向井。
僕の身体は指先まで熱くなり、火の息を吐くかと思うほど焼け付いた喉でひたすら生を渇望していた。
だが夏に見たときと同じ死の淵は、容赦なく迫り現実に僕の逃げ道を塞いでいた。
背に衝撃を覚えた瞬間入り込んできた声が、液状になっていくかのように耳の中をいっぱいにしている。
――ゲームはもう始まっているんだぜ?
眼球の奥を揺さぶるような痛みが頭蓋骨にまで響き渡ったと思うと、真っ白だった視界は突然真っ暗に反転した。
操り人形が人形師を失ったときのように、自分の身体がぐにゃりと魂を無くす映像が一瞬見えた気がした。
――なあ、この日常の中に俺らが求めるものなんてあるのか。
茫洋とした黒の世界の中で、昨日の朝けだるいファーストフード店の、軽薄なBGMにかぶりながら放たれた向井の声が蘇った。
なあ、向井。お前は一体何を欲しているんだよ。
言葉を繋ごうとして、世界から意識だけが遅れてなくなった。
毎度執筆速度が遅く、亀更新になってしまっており、本当に申し訳ありませんです(ぺこり)
ようやくこれで十章は終わりになります。
更新も遅いくせに、進みも遅くて、何だか本当にすみませんですっ(涙)
またあまりにも前回から間があいてしまったために、いつも以上に書き方が分からなくなってしまって焦りました(慌)
猛烈に反省しちょります。
今後も私生活と上手く両立させつつ、頑張って書いていきたいと思います。
どうぞ宜しくお願いいたしますっ。
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