第十章 鬼ごっこ 十三
ラーメン屋を出た後、いつ誠大と別れ、どうやって電車に乗ったのか、全くもって思い出せなかった。
だが、気付いたらきちんと自宅の最寄り駅に降り立っていて、濡れそぼった身体をしっかりと「寒い」と認識していた。
あまりの身体のダルさと頭痛から、熱があるのかもしれない、とぼんやり思う。
ここから家まではバスに十分程度揺られなければならない。
駅の小ささにしては背の高すぎる古びた時計が、午後二時半を指している。
「なんて長い一日なんだろう、今日は」思わず呟いた。
駅前にはパラパラと人がいて、こちらに向かってきたり離れたりしているが、僕に目線をくれる人は誰一人としていない。
誰もが色のついた傘で顔を隠すようにして雨を防ぎながら、僕の前を通り過ぎていく。
思考力が鈍り、注意を外に向けることさえ面倒臭くなっていて、緩慢な身体を弄んでいた。
雨に濡れながら聳え立つ時計の側で、ため息に似た咆哮を小さくあげてみる。
だが、何も変わらない。足元に雨が溜まっていくことさえ、無情な仕打ちに思えてくる。
時計の、所々錆びた部分を見上げて見る。
そして、そういえば、この時計をきちんと見たのはいつぶりだろう、などと思う。
なんだ、お前も仲間じゃないか。
どんなにひどい状況下でも、こうして人々に時刻を教えているのに、誰にも気に止められない時計に対して、僕は何故か親近感を覚える。
足元の雨水を軽く蹴り飛ばし、時計の柱を労わるように叩いてみる。
ドーンと腹に直接響くこもった音がして、瞬間的に誠大の笑顔を思いだした。
だがそれを嘲笑うかのように、時計に触れた手が凍るような冷たさを植えつけていく。
途端に込み上げてくるものがあって、思わず慟哭しそうになり、破裂寸前の玉を飲み込むような注意深さで唾液を飲んで、何とかやり過ごした。
冷えから刺すように痛む身体を、いい加減ずるんと金繰り捨ててしまいたくなる。
そうしてまっさらになった身体を柔らかい毛布で包んで、もうずっと動きたくないと思った。
濡れた前髪が重たく額に張り付いて、時折毛先が目に入って目尻に涙が溜まる。
泣いているような錯覚が、誠大の苦渋に満ちた顔を連想させて、その度に立ち止まった。
目印になると言ったものの、余計分からなくなった向井に、僕の思いが伝わるとは思わないんだけれど。
また弱気になる。
店を出てから、ずっとこの調子だ。
タイミングさえ合えば誠大の受けた傷からも、向井の奥底にある影からも知らないふりをして、観客の中に紛れ込んでしまおうとする狡さを捨てきれない。
それほど誠大の話した真実は、僕には荷が重過ぎるものだったのだ。
目の奥の方で、誠大の残像が渦を巻くように揺れていた。
先ほど聞いた言葉が、今更外耳道を 蛞蝓が這うように行ったり来たりしている気配がする。
――お前を龍のターゲットにはしたくなかった。
誠大の口から泡のように溢れ出した不安定な言葉が、数珠繋ぎになってぶつかってくる。
――お前が殺されているのを見たんだ。
固く目を瞑った。
途端に異世界に飛ばされたような孤独感に襲われ、誠大と過ごした日々がすぐ側を、あるいはひどく遠くを通り過ぎていく。
「いやだ」思わず声が漏れた。
「嘘だろ? ほんと」堪えても生まれる隙間を、恐怖が器用に溢れ出ていく。
目の奥が熱くなって、溢れ出てくるものをどうすることも出来なくなった。
ぼやける視界に誠大の笑顔を探すが、見つからない。
「まさか本当に、向井が人を殺したかもしれないなんて」
パタパタと音が鳴るように涙が頬に落ちた。
「僕も殺されるのか?」
情けない声が止まらない。
雨に混じった涙が頬を垂れていく感触が、ひどく気持ち悪い。
「僕はどうしたらいい。彼らの側にいるといって、結局は向井の罪を糾弾するのか?それとも向井の目の前で、結局僕はいつものようにただ笑って、誠大に相槌をつくのか? そうしたら向井は、一体どうなる?」
強く思っていれば、僕らの世界の雲はいつか晴れ、太陽が燦々と差し込み、暖かくなるだろうか。
思いながら、目の前で揺れるカラフルな傘の波をぼんやりと見た。
そしてふと、先ほど店を後にするとき置いてきた、透明の傘のことを思い出した。
「透明な傘を買ってしまったからいけなかったんだ。透明な傘は、知る必要のないことまで全部透けさせる」
嘲笑が漏れた。
死に際の蝉が鳴くような震えた声で笑いながら、向井が尖ったナイフで斉藤先生の心臓を一突きにするところを想像した。
瞬間的に胃が熱くなり、逆流が起こりそうなる。
冷たい手の甲で口元を乱暴に覆いながら、スコールのような雨が溢れる涙を洗い流していくのに身を任せていた。
時折感じる塩気で意識を保ちつつ、唐突に「向井と話をしなければ」と思った。
僕に残された手段といえば、向井と直接話しをすること以外に考えられないのだった。
彼の蛇のような鋭い目を思い出すと、たちまち自分が震えていることに気付かされた。
塩気を感じていた舌に、ふと鉄の味を感じる。
いつの間にか唇を強く噛んでいたようで傷つけたらしい。
僕はそれを舌先で舐め取り、そのまま外へ舌を突き出した。
熱い舌に冷たい雨が当たって、舌先に張り付いた血液が薄まり、じわりと広がっていく。
それは僕に、テレビで見るような安っぽい死体映像を連想させた。
濡れた舌に溜まった唾液や雨水を足元に吐き出し、バス停の方へ視線をやった。
昨日最後に見た、向井の強い引力を持った冷たい目を思い出す。
あれは僕が初めて真正面から見た彼の目だった。
逃げ続けてきた彼と、向き合わなければいけない時が来たのだ、と声が聞こえる。
頭の中で再現されるバスの揺れの中で、僕の中に飛び込んでくる強い視線に再び動きを封じられながら、身勝手に湧き出す声を閉じ込めるように拳を握って足を踏み出した。
更新が滞っておりまして、申し訳ありません。
その上更新をほったらかしつつ、下記にあります「春の小説競作企画」に首を突っ込んでおります(汗)
もし興味のある方はお気軽にどうぞです。
なかなか話が進まなくて、本当にすみませんっ。
あと数回でやっと十章が終わりそうです。
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