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  Flow 作者:森カラ
第十章 鬼ごっこ 十二
 テーブルの上に点々と出来た涙の痕を見て、彼の肩を掴む手に力が入る。
それまでゴムボールを握っているようにふわふわとしていた感覚が、ゴツゴツした誠大の肩の骨を掴んだ感覚に取って代わっている。

 乾いた唇を軽く舐めた。
舌先に痺れるような塩気を感じて、咽そうになり、肺が潰されたように痛むと同時に、どこまでも広がっていきそうな深い声が聞こえた。

 望んでいたんだろう?
 失いたくないと望んだから、隠されたものを追いかけたんじゃないか。

 無論、他の誰かの声じゃない。
自分の奥底からわいて出てきた、僕の声だった。
 誠大の肩を掴んでいた手を拳に変えて、そのまま彼の濡れた右頬に押し当てながら言った。

「いっそ、殴り合いでもしてみようか?」

 誠大は力の抜けた顔をして、それから緊張の糸がぷつりと切れたよう穏やかな顔をした。
そして僕の拳を受けたまま真っ直ぐ向き直ると、いつもの調子を取り戻して、

「お互い、そんなキャラでもないだろ」
 
「逃げないよ」
拳を戻しながら、続ける。
「もう、誠大の影に隠れて、期待ばかりするのはやめる」

 拍子抜けした表情で、誠大は自身の右頬を手の甲で押さえながら、僕の言葉を聞いている。

「知ろうとしたのは僕だった。混乱して、分からなくなってた。何があっても、誠大と向井のことを聞き出してやるって思っていたのに、いざそうなったら、簡単にパンクして誠大に当たっちゃったよ」

「いや、無理もないって。こんな面倒臭い話を聞かされて、イラつかないほうがどうかしてる」
「……誠大ももう、そうやっていい奴でいるのはやめろよ」

 そう言った僕に、誠大は肩を竦めて、悪事のバレた子供のような顔をしてやり過ごした。
僕はそれを見ながら、本当は未だ震えの止まない両手でジーンズを再びきつく握り締めて、笑って見せる。だが誠大の表情は変わらない。

「倖はもう、俺と龍之介から離れて、自分のことだけを考えていればいいんだよ」
「やっぱりさ、何聞かされても、誠大とこれで終わっちゃうなんて嫌なんだよ。初めてだったんだ、誠大みたいな友達が出来たの」

 失意と落胆に塗れた、沈んだ表情をしていた誠大が驚いた表情をして、僕を見た。
僕は赤面も気にせず、それに正面から応えて続ける。

「誠大が向井を救いたいんなら、僕もそれを手伝う。もう顔色を窺ったりしない。僕は、僕に出来ることを何とか探してみたいんだ。友達として」

 誠大はすぐに「お前には参るよ、ほんと」と言葉を続けて、
「だからさ。お前に出来ることなんか、ないんだよ」

「あるよ」
「ないんだよ!」

 誠大の咆哮に似た否定に身が固くなったが、もう目を瞑り、逸らして、誠大という正義(ヒーロー)に従うことはしなかった。

「今度は僕が、誠大や向井に認められる人間になってやる。そしたら二人まとめて、守ってやるよ!」

 思わず、席を立っていた。
人の目も気にせず、テーブルの上の丼が不安定になり、残っていた汁を飛ばしたのも気にせず、僕は溢れ出てくる感情を止めることなく、ただ叫んでいた。
投げ遣りなのでも、無責任なつもりなのでもない、そんなことは、僕にとって初めてのことだった。

 だがテーブルに両手をついて、上から誠大を見下ろしながら、悔しい思いでいっぱいでもあった。
どんなに強がって吼えようと、結局僕にたいしたことなど出来ないと分かっているからだ。
いくら誠大から本音を聞かせてもらったとはいえ、それは彼らの間にあった歴史のほんの一部分のそれでしかない。

 聞くだけならば数十分で済む話に、彼らは何年も苦しめられてきているのだ。
身体に傷を作り、一方では人を傷つけてもきた。
何の不安もなく生きてきた僕に、彼らの痛みや苦しみなど、本当の意味で理解できるはずがない。

 誠大の話を聞いて分かったのは、結局そんなことかよ、と僕は誠大から目を離して、ただ涙が出てこないように必死に耐えていた。
耐えていないと気持ちが崩壊して、大きな言葉を吐いた自分が、本当にどうしようもない馬鹿のまま流されて行ってしまう気がした。

「腕、震えてるじゃねえか」
誠大は、震えながら体重を支えている僕の腕を見て、噴出すように笑いながら、
「あんまり頼りなくて、信用できないだろ、それじゃ」

 僕が言葉もなく、そのままの姿勢で立ち尽くしていると、誠大は両手を僕の肩に乗せ、座らせた。
冷えた肩にヒトの熱い体温を感じて、ハッとなる。

「でも、俺もそろそろヘラヘラ笑って立ち回るのを止めないと、龍之介に何言っても無駄かも知れないなあ」
誠大はそこまで言うと、腕組みして大きく頷き、
「今のお前が必要なのかもしれないな。俺が無理矢理作り出そうとしていた、駒のお前じゃなくて」

「今の僕?」
そうだ、と僕は一番知りたくて、一番怖くて聞けなかった問いを続けた。
「何で誠大の友人代表に僕が選ばれたんだ? 僕がいじめも知らないような、温室育ちだったからって理由の意味が分からないよ」

「あいつを救うためには、俺一人では無理だと思ったんだ。だから龍がどんなに危ない奴だと気付いても、俺を裏切らず、俺を肯定してくれる従順な人間が必要だった。お前は完璧だと思ったんだ」

 誠大は言い、すっきりした表情で一度伸びをした。
まるでこの中途半端な緊張感を楽しむように、俯き、目を瞑ってフッと笑みを零すと、

「今まで、傷や痛みっていうのは、それと同じような傷を負った者としか分かり合えないと思っていた。そして痛みを持つもの同士、寄添いあっていれば、いつか傷は癒えるんじゃないかって思っていた」

でも違った、と呟くと、今度は真剣な顔をして、
「似たような傷を持っていたところで、結局は出口から遠のいていくだけなんだ。お互いがお互いの足を引っ張って、孤独から逃げようとする。心中するみたいに、どこまでも堕ちて――そこに終わりなんてないんだ。終わらずにずっと最悪が続いていく。
 でも唯一、お前と話しているときにだけハッとすることがあるんだ。ああ、俺、他人をすげえ心配させちゃってんだなあって」

「やっぱり意味が分かんないよ」

 僕の少し不貞腐れた呟きに、誠大ははにかんで笑い、乱暴に足を組んだ。
そして今までとは違う、力を帯びた瞳で僕を見て言った。

「不思議だよな。ただそれだけで、強くなりてえ、なんて思っちまう。もっと強くなって、本当の意味で誰とでも対等に付き合えたらって、思う。光の射さない深海みたいな場所にいたはずなのに、お前のバカみたいに真剣な顔見てたら、こんなんじゃダメだって飛び出していきたくなるんだ」

「言って」
僕は一瞬躊躇したが、そのまま言葉を吐き出した。
「そう、思っていることを言ってくれればよかったんだ」

「言えなかった。龍を救いたいという気持ちは、あまり知られたくなかった。
 いや、本当は、お前に自分の弱さを打ち明けることで、俺はどうにかなってしまうんじゃないかと怖くて仕方なかった。しがらみやトラウマに支配されていることに苛々しているのに、いざそこから解放されると思うと途端に臆病になる。俺の中にあるコンプレックスは、自分を痛めつける傷でも、守る盾でもあった。

 でも素直に人を疑ったり、バカ正直に人を信じたり、感情に任せて人を責めたり、好きなものを、ただ好きだと言う。お前の言葉は痛いくらい信じられるから、すげえ響いてくるんだ。あんまり能天気で、イラつくこともあるけど」

 告白を聞きながら、先ほど弱弱しく見えた誠大から思い切り目を逸らし、受け止めようともしなかった自分をゆっくりと受け入れて思う。

 僕を騙したと言っていたのに、誠大は、僕のことをちゃんと見ていてくれていた。
一方で、今まで図ったこともなかった深海からの脱出に躊躇し、もがいていたのだ。
 けれど、彼は新しい酸素を求めて、今、浮上した。

「きっと龍も俺も、絶えない痛みに貫かれているフリをしているだけなんだ。逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せるのに、それをしない、いや出来ない。信じて飛び出せていける場所がないからね。もう余計な傷は負いたくない、と思ってしまう」

 でも、と誠大の告白は続く。

「傷を知らないから、その痛みに怯えることもない。だから、お前と一緒にいれば、いつか俺もそうやって自然で在ることを、取り戻せるんじゃないかって思っていたんだ。そしてそんな純粋さを初めから、苦労もなく持っていたお前に憎しみすら覚えてもいた」
その弱さがいけなかったんだけど、と力なく笑う。
「でも実際、龍之介に必要なのも、きっとそうした人間の温かみなんじゃないかって思うんだ。その純粋な温かみは、やっぱりお前にしか出せないんだろうなって思う。俺にはとても無理だ」

 誠大の茶色く透き通った目玉が僕を捉えている。
その目に映りこんだ僕自身を見ながら、端から彼らの痛みや苦しみに心から共感することなど不可能なのだ、と再び思う。

 けれど、共にいることは出来るんじゃないか。
 まるで子供だ、と同時に思う。

これじゃ子供の得意な、都合のいい言い訳みたいだぞ。
けれど僕はそのまま思考をやめずにいる。

 彼らの隣にいれば、身体に伝わり合う孤独や辛さの波動を感じ取ることが出来るはずだ。
そしてそれを感じたとき、救い上げることは出来なくても、お互いの傷の痛みに震える彼らを、僕の能天気な太陽で照らして、不穏な雲を払いのけることも出来るかもしれない。

 僕の頭の中を色々な単語が通り過ぎていく。
それらの全てが“負”の意味を含む単語たちばかりだ。
けれど僕は、今度はわざとそれらから目を瞑って、誠大に笑顔を向けて言ってやった。

「僕が、目印になってみせるよ。だから誠大は僕に向かって、向井を引っ張り上げてくればいいんだ」

 なんて呑気で馬鹿げた発言なんだ、と思っていた。
けれど、いつもよりはずっと、胸の中がすっきりとしているのを感じている。
今まで彼らを前にすると必ずどこからか発生していた、霧のようなもやもやも息苦しさもない。

 力が肺の隅々にまで行渡る。
そして神でもない、他ならぬ僕自身に僕は誓う。思いの強さが、何ものにも勝ると証明してやる。
今度こそ、自分の言葉を守るんだ。

 小さくだが、うん、と誠大が言ったのが分かった。
それはまるで、今まで僕らの周りを覆って光を奪っていたカーテンが破れたような、重々しくて、とても軽快な音だった。





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