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  Flow 作者:森カラ
第十章 鬼ごっこ 十一
 頭の中が揺れた気がした。
 微熱を伴っているときのような気だるさが全身にあって、冷静な判断を鈍らせている。

 ゆらゆらした頭で、「今、脳内で響いている音は、言葉が脳にそのままぶつかった音なのだろうか」などと思っていた。
その一方で、思考を止めても滲み出す“ターゲット”という言葉に、ゲームや映画で見る血飛沫や濁った効果音が連想されていた。

そして、僕が想像出来得る限りの最悪な死体映像を、僕を取り囲む音や空気が脳内で勝手に上映を始める。
僕が止めようとしても、目の前に転がっている血塗れの死体に向けて、勝手に眼球が操作されてしまうのだ。

 流れ込んでくる映像には、その死体の爪の形や、血に濡れた唇の形状がよく映っている。
あまりにも僕に似ているそれらに、途端に焦点が合って、目が離せなくなる。
「な? お前だろ、これ」と確認を求めて、僕の中心目掛けて飛び込んでくるような感覚さえあった。

「だから、僕になかなか向井のことを話してくれなかったのか」
 声が震えて、上手く音にならない。カチカチと鳴る自分の歯の音に、面白いほど追い込まれていく。

「倖、落ち着いてくれよ」
「そうか、そうなんだ。僕が、次のターゲット? やっぱり向井が犯人なんだな。向井が斉藤先生を殺したんだね。じゃあ、僕も、斉藤先生のように殺されるのか?」

 呟いてみても、なかなか現実感を伴わなかった。
昨日テレビで観た、好奇心を剥き出しにしたニュースキャスターの卑しい声が蘇る。
それに乗って現れる、母親の煎餅を齧る呑気な音が、無神経に僕の前を通り過ぎていった。

 どうしても音が僕から離れていく。
聞き慣れた誠大の声で、僕は僕を取り戻したいのに、僕一人だけが地底深くまで落とされたようだった。

上手く音が聞き取れない。
先ほどまで側にあった環境音も、人の息遣いも聞こえない。

まるで、突然ヘッドホンから音が消えたように孤独な静寂があった。
平穏だったいつもの僕らの日常は、伸ばした指の先を上手にかすめて、とても掴めそうにない。

「そんなことは言ってない! それに龍は、俺を救うと言ってる。龍の中にある信念が俺にはまだ分からないけれど、きっとそれが分かれば、龍が何で俺にそんなことを言ったのか分かると思うんだ」

「そんなことが分かったところで、一体どうなるっていうんだよ! 僕が殺されない保障でもあるっていうのか!」

「それは……正直分からない。でももし、龍之介が本当に斉藤先生を殺していたとして、“殺人”と龍のしている“ゲーム”と“俺を救う”ということが直線で繋がるんなら、きっと俺があいつを止められると思うんだ」

 心臓そのものを張り手されたような衝撃があった。
それは僕が先ほど考えていたことと同じだった。

そうだ、それが一直線に繋がるのならば、向井の手の上に広がった真理が見えてくる可能性がある。
けれど、声が出てこない。息さえ焼けるような喉の熱さに、混乱が増していく。

 激しく上下する自分の肺を見ながら、じっとりと汗の掻いた首筋にべたりと真っ赤な血を擦り付けられたような不快感を覚えていた。

「今じゃこんな風に倖を怖がらせるつもりも、こんな形で巻き込むつもりもなかった。全部、俺のお前に対する嫉妬と、龍之介に対して消えなかった嫌悪感が生んだ弱さが原因だ」

 目の前で誠大が頭を下げているのが見えた。
この期に及んで、僕は汚いテーブルに額をつけている誠大が悔しくて堪らなかった。

どうして僕なんかに頭を下げる? どうして弱者のように、そうやって許しを請うんだよ! 涙が止まらなかった。

 そしてわきあがる恐怖が、己を無力な子供のような気持ちにさせる。
僕の身勝手な思考が逃げ道を求めて、いつだって誰かに守られ、助けられて当たり前なのだと思っていた子供時代を蘇えらせるのだ。
そして、今こそそれが大声を張り上げて主張してよい権利なのだと言わんばかりに、僕の鼓動をますます早める。

「倖にちゃんと話しておかなきゃ駄目だと思った。もし何かあったら、すぐに誰かに助けを求めてくれ。本当にごめん」

 テーブルに手をつき、額をテーブルに擦り付けたまま、低いがハッキリとした発音で言った誠大から、僕は切り落とすような速さで目を背けた。
その瞬間、誠大だけでなく、まるで僕が僕自身さえ見捨ててしまったような感覚が横切ったのを覚えて、小さく声が洩れた。
それを契機に、シャンパンボトルから溢れ出す泡のように、ひどい後悔と罪悪感が僕の中で氾濫を起こしたのを感じた。

 弱弱しくだが、もう一度彼の方に視線を向けてみる。
彼の、少し震える指先が見えた。先ほど誠大が見せてくれた過去の傷が、少しだが見え隠れしている。

 上下する、折り曲げられた彼の背中を見ながら、同じように呼吸を繰り返した。
脳に酸素が回りだして、興奮して血が上っていた頭がようやく回りだす。
 くらくらと揺れる視界の中で、何も考えずに伸ばした手が、今度は誠大の肩を掴んだようだった。




登場人物のパニック中の心理描写の難しさに唸る。
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