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  Flow 作者:森カラ
第三章 ループ 二
 同日、午前八時四十五分。
 神木は入り口に止めて待っていた村上の車に乗り込むと事件現場へと急いだ。
まだ温まっていない車の温度になかなか慣れず身体を捩ると、村上は車内の暖房の温度をさり気なく上げてくれた。

静かに礼を言うと村上は少し驚いた様子のまま運転を続け、赤信号で止まった際に「何か今日神木さんらしくないですね」と一言言った。
確かに顔を合わせればいつも怒鳴りつけていた村上に対して殊勝に礼を言うなどガラじゃなかったかもしれない、と神木は思った。

 しかし警察を離れていた一週間、神木にとって一番の気がかりだったのは他でもない、この村上だった。
そんな気持ちからつい元気な姿を見て気が緩んでいるというのもあるのだろう、と片付けた。

 一週間前、神木はある大きな事件に関わっており、タレ込みのあった場所に向っていた。
それは古くから対立し合っていた割と大きな組織同士の抗争で、派手なものになるかもしれないということは簡単に予想できた。

しかし皮肉にもその日は神木の四十四回目の誕生日であり、ふとした拍子に思い出す「一つ歳をとったのだ」という事実が仕事に対する情熱を簡単に奪いそうで、常に恐怖が付いて回った。
そしてその恐怖は、もう既に自分の身体は正義感だけでは動かなくなってきているのだ、という事実を神木の四方八方に容赦なく散りばめていった。

また、それに伴い思うように動かし辛くなった身体や神経痛に悩まされていた毎日までもが起爆剤となり思考を鈍らせ、神木は情けなくもこのタイミングを呪うことしか出来ないでいた。
もしこのタイミングでなく、こうした感情が芽生えていたら自分にとって「警察官ではない人生」を考えるいいチャンスになったかもしれない、とまで頭を過ぎる。

だからこそ今の己にとってこの抗争を止めるための一役に払う代償はとてつもなく大きなもので、結局それらのことは踏み込む直前まで神木に頭を抱えさせた。

 その結果神木は一週間の自宅謹慎と一ヶ月間の減給を命じられることとなった。
共に踏み込んだ仲間たちはあの状況では仕方なく、誰も神木を責められないと言ったが、神木自身はそれが全うな処罰だと納得していた。

なぜなら神木は逃げ出した組の幹部の男の一人を、署内の若手の仲間の一人が暴力を受けながら何とか取り押さえたにも関わらず、暴れる男を見据えながら空に向って一発発砲するという失態をやってのけたからだ。

 それはすぐさま審議にかけられた。発砲許可は出ていたし、人を撃ったわけではないものの、その状況においての発砲は余りに不自然だということだった。
しかし三谷の尽力もあり、何とか首を切られることだけは免れた。

だが引き金を抜いた瞬間、既に神木の中に「辞職」は完全な信念となって定着していた。
それがちっぽけなものだったとしても、そこには「責任を取る」という思いも少なからずあったわけだが、それ以前に神木はあの現場で気付いてしまったのだ。

見ることの耐えられなくなった映画を止めるタイミングを見計らうように、いつもリモコンを手にしながら様子を窺っていた自分自身を。
警察に留まることを肯定し続けてきた自分を見つけてしまったのだ、いや、やっと瞳にそれを映すことを自分に許せたということなのかもしれない。

だが自分の目の前に写ったその光景はあの時の神木には動揺しかもたらさず、結果このような事態に陥ってしまった。
だから自分はもう辞めるべきなのだ、と神木は決意したのだ。

 しかし神木には一旦離れたいと切望していた警察を実際に離れて分かったことがあった。
 神木は謹慎中、毎日仏壇から妻の視線を感じながら酒を煽るように飲んだ。

酒を飲んだのは実に約二十年ぶりのことだった。
酒は素直に錆付いた脳を麻痺させ、神木から全てを肯定する自由を奪った。

その中で神木は「そうだ、俺はまだ何も解決させていない。理恵の事件から二十年、俺は何一つ満足に自分を納得させたことなどないのだ」と気付いた。
全うに職務をこなしていたようでそうではなく、二十年もかけて自分からまともな思考を垂れ流すはずのチューブの栓を延々閉め続けていただけだったのだ、と。

 まだ終わらせる訳にはいかない。

 何が正義なのだ、どうして犯罪は後を絶たずに増え続けるのか、理恵の死はなんだったのか、俺は何一つとして答えを導き出せていない。

 だからまだ戦わねばならない、辞めるわけにはいかないのだ。

 仏壇のりんの音はまるで理恵の笑い声のように神木の骨まで震わせて、家中に響き渡っている。
神木は力の抜けた身体をそのままにして、全てが解れた世界に素直に身を投じた。

その時ふと神木の目の前にぼんやりと村上の脹れた横っ面が目に浮かんだ。
何故だか笑いが込み上げてくる。
ヘッヘッと薄気味悪く笑いを漏らしながら、神木は妻の事件以来、初めて微かに「俺は生きているのだ」ということに気づいた。

 そして今、神木の瞳は疲れたと言ってはため息を吐きながら運転をする村上の姿を捉えていた。
悴んだ左手で右の胸ポケットにそっと触れる。忍ばせたままの、少し皺のよってしまった「辞職願」がその存在を主張してくるようにカサリと乾いた音を発した。

神木は敢えて確かめるようにそれを胸に押し付けると、村上に事件の概要を尋ねた。
村上は、本当に何も知らないんですねと呆れた声で神木を嗜め、一瞬フッと電池が切れたように緊張した筋肉を緩めると、途端に真面目な顔をして事件のあらましを説明し始めた。

「事件が起こったのは今朝未明。北公園内で男が刃物で全身を刺されてうつ伏せに倒れているのを近所の会社員、青木琢磨三十二歳がジョギング中に発見、そして通報に至ったようです」

一度咳払いをして一呼吸置くと、村上はアクセルを踏む力を強めながら続けた。
「解剖の結果はまだ出ていませんが、死因は失血死かもしれませんね」

 正面の信号が黄信号に変わったのを見て彼女は再び加速すると、
「まあ、私たちは雑用しにいくようなもんですよ。さあもうすぐ着きますよ」


 外では思い出したように北風が吹き荒び、からかうように神木たちの首筋を駆け抜ける。
村上に続いて公園に近づくと、園内で既に警視庁刑事部捜査一課の者たちが現場検証をしているのが見えた。それを見て先程村上の言った言葉の真意が掴めた。

「出張ってきているのか」

 神木は立ち止まってため息を付くと少し項垂れた。
頭を垂れると何故か耳に入り込む環境音が大きくなった気がしてドキリとする。
現場に流れる緊張には未だ慣れない。そこには必ず見えない数多の感情が浮遊しているからだ。

「そうですよ、署内にもたくさん人がいたでしょ。うちに捜査本部が置かれるんですよ」と村上。
「いや、気づかなかった」

 神木がそう返すと、薄目で憐れむようにこちらを一瞥した村上は言った。

「ほんと呑気ですよね、神木さんは。その歳で天然ってハッキリ言って痛々しいですよ」

 悪気はないのだろうが、少しカチンとくる。
神木は村上の頭を小突くと掻き混ぜるように頭を撫でた。
村上はブツブツと口元で何か呟くと、気持ちの良いほどのベリーショートの髪を整えながら急に真面目な顔をして言った。

「ここ数日この付近で犬、猫合わせて5匹も殺されていたりしたんですよ。で、今日のこの事件です。これから忙しくなりますよ」
「犬、猫……?」

 神木はふいに全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。
頭の片隅で何かがショートして弾けたように突然の頭痛が思考を奪う。
数秒だろうか数分だろうか、この感覚に弄ばれ、気味の悪さを覚えながら神木は軽く頭を振った。

「神木さん、どうしました」

 目に力を入れて前を見ると村上が不安げに凝視している。
眉の上で無造作に切られた前髪が村上の奥二重で切れ長の目の魅力を存分に引き出していて、神木は久しぶりに正面から見た彼女がいつの間にか女の顔をしていることに僅かに動揺した。

「いや、何でもない」

 神木はそう言うとすぐさま彼女から目線を外し、気を取り直すために深く息を吸った。
だが意図に反して冷やされた空気は神木の身体を駆け回ると胃が持ち上がるような不快感をもたらしただけだった。



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