第十章 鬼ごっこ 七
どこからか隙間風が入るのだろうか、時折何の前触れもなく首筋や足首に冷気を感じた。
それに首を竦ませたり、足を交差してみたりしながら僕はヒーローの消失について、ぼんやりと考えていた。
誠大はまだ目の前で、視線を足元に落としている。
隣の厨房から、慌しい音は確かにしているのに、僕達は何も弾かない。
お互いに現実から逃げるように、意識を覆って音を消しているようだった。
僕は、ヒーローを失った。
それはまるで、ヒーローの衣装を纏った、普通の人間に出会ってしまった感覚だった。
確かに、ヒーローなんているはずがない。分かっている。
しかし僕が誠大を見ている時、彼はいつでもヒーローで、正義だったんだ。
固くて丈夫な道の上を歩いてきたはずが、いつの間にか自由を奪う泥の上を歩いているような感覚だった。
僕の存在も同じく、あやふやになっていく。
ああ、と僕は思う。
誠大を通して、僕は自分を見ていたのだ。
だからいつでも強い自分で在れたのだ。
誠大がとても強かったから、彼に跳ね返って感じる「自分」というものも、まるで同じように強いものに感じていたんだろう。
(誠大も、向井というヒーローを失ったんだ。そして、もしかしたら向井も誠大という大切な人を失っていたのかもしれない、か)
体内で響く鼓動がタイマーのように焦りを生む。
(考えろ。僕に一体何が言える?)
僕は五月蝿い鼓動に強く念じた。
まさか僕と彼ら二人を重ねて感じられる時が来るなんて考えたこともなかった。
だけど、僕が彼らを、僕が勝手に作り上げた理想の現実の中へ置き去りにしていただけなのなら、そして彼らもヒーローの喪失を味わったのなら、僕に出来ることだって、まだ残されているんじゃないだろうか。
「誠大は一体、昨日の夜、向井の家で何を見てきたんだ」
誠大は身体をビクッと反応させたのを庇うように、両手を擦った。
それを見て、少し胸が苦しくなる。だが、テンポを変えずに僕は畳み掛けた。
「誠大が向井を救いたい、という気持ちは分かったつもりだよ。それに、それがどういう意味を持っているのかはまだ分からないし、正直まだ信じたくないけれど、それには僕を騙して、友人に仕立て上げなきゃならなかったという事実も分かってるつもりだ。でも、じゃあ何で誠大はそんなに絶望的になってるんだ?」
誠大は僕の言葉を浴びながら、まだ口を開こうとはしなかった。
ただ、人工的な温風に髪を靡かせながら、影を濃くしている。まだ僕の応酬は止まない。
「僕は自分が特別だと思っている訳じゃないよ。でもさ、僕は、僕を騙すことまでして向井を救おうとした誠大が、何でそんなに、全部失敗に終わっちゃったような顔をしているのか、全然分からないんだよ」
そこまで言うと、ようやく誠大は僕に視線を向けた。
だが、開きかけた口からは弱弱しい呼吸音しかせず、言葉を発するのをまだ躊躇っている様子が感じられた。
それを見据えながら、僕もゆっくりと覚悟を決めていく。
隙間風に体温を奪われ、冷たくなっていく指先をテーブルの下で軽く動かしてみる。
そして、誠大の見た向井の“何か”を受け止めようとする心の準備を、誠大に読み取られないように、静かに鼻から息を大きく吸うことで、した。
そして少し大きな声で、
「誠大がそれを僕に打ち明けることは、向井を救えなかったということにはならないよ。もちろん、裏切ったということでもないと思う。
気になって仕方がないんだ。だって向井を救いたいのなら救えばいいよ。そのために僕が必要なら、もうどうしてくれたって構わない。でも誠大は、それはもう遅いっていう。なあ、一体どういうことなんだ? どうしてもう、向井を救うことが出来ないんだよ?」
誠大は僕の言葉が終わると、参った、というような顔をした。
そして「ふうん、そっか」と笑いながら、
「強かったんだね、お前。俺、お前のこと誤解してたんだろうな。お前は俺の中で生きてる人間じゃなくて、現に、ここで、お前の意思でちゃんと生きてたんだよな」
ゆっくりだが、音が戻ってくる。
人の息遣いやくだらない昼のテレビが、このラーメン屋の小さな箱を震わすほどハッキリと聞こえるようになった。
誠大の瞳には力が戻り始めていて、彼の発する雰囲気も徐々に温かみを帯びてくるようだった。
「龍がマンションに籠もり出して疎ましくなってから、俺はあいつを完全に避けるようになった。高校に入って二年に上がるまで、龍の家にもあのマンションにも、もう寄り付こうともしなかった。連絡も当然取り合わなかった。だから俺は龍と同じ高校に入っていたことにさえ、始めは気付かなかったんだ」
「そうなのか」
言いながら「確かに」と思った。
確かに今年向井と同じクラスになった時の、誠大の不自然な表情はあまりにも鮮明に覚えていた。
「恐くもあったんだと思う。あいつは何にでも執着しすぎるところがある。坂下との件が良い例だ。だからあいつと一時でも離れた理由には、正直、恐くなったという感情も大きいんだ」
「こんな言い方をしたら誠大は嫌がるだろうけど、二年に上がって、向井が僕らに加わってからの誠大はひどく怯えているように見えてた。
それに僕にとって向井は、誠大を通してしか見えない奴だったから余計に恐いんだ。あいつの全てが」
言いながら向井の、狂気の潜んでいるような瞳を思い出す。
冷や汗が腋の下をじんわりと濡らすのを感じて、生唾を一度飲み込んだ。
しかし、こうして誠大が僕に対して滑らかに本心を話してくれていることへの喜びと安堵が、向井に対する恐怖を少なからず和らげてくれていたのも事実だった。
「高校で数年ぶりにあいつを見たとき、正直吐きそうだったよ。偽ってた自分を見られたことによる後ろめたさもあったけど、それだけじゃない。あいつ、あの頃と何一つ変わっていなかったんだ。いや、より酷くなっていたといってもいいかも知れない。まさか、まだあんな冷めた目してるなんて思わなかったんだ」
一呼吸置いて、誠大は続ける。
「久しぶりに行った龍のあのマンションには何もなかった。あったのはパソコンと床に置かれたテレビ、放置されたゲーム、それだけだった。窓は遮られていて、光も差さない。俺は、その中であいつは、何年も自分だけの宗教を育んでいたんだなと感じたよ」
「宗教?」
聞きなれない言葉に、気持ちの悪さが瞬間的に体中を駆け巡るのを感じた。
「生の充実……前から、何かあると龍は必ずそう言う。それが俺には宗教としか思えないんだ。龍が話す言葉の一つ一つの重みが、全てあいつの哲学に直結してる気がする。今は一緒にいて、普通に話をするのも怖いくらいだ、正直」
「生の充実って、一体どういう意味?」
「分からない。俺もずっと考えてるんだ。知り合った頃からずっと。でも、全然分かんねえ」
そうして誠大は目を伏せてしまった。
けれど、まだ言葉が続くような雰囲気を持っている。
次の言葉を待つ過程で、また音が遠のいていくような不安が湧き上がってきた。
どうしていいか分からず、待ってくれ、行かないでくれ、と訳の分からない抵抗を頭の中で続けていると、誠大の重たい声で再び連れ戻された。
「あいつ、人を殺していたんだ」
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