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  Flow 作者:森カラ
第十章 鬼ごっこ 二
 そうだ。今僕は、誠大という友人との時間を手放そうとしているのだ。
もう再び戻ってくることのない、彼と友人でいられるこの時間を。

「誠大の言うその計算の中には、僕も含まれていたんだね」

 誠大の首が少し迷って、そして微かに縦に振れた。
それを見て、喉のずっと奥が意思とは別の力で押し潰されたように感じる。
そして、「ああ、僕は言葉じゃなく、痛みそのものを吐き出したんだな」とぼんやり思った。

「僕は、誠大にその計算の答えを間違えさせてしまったのか」

 辛うじて出て来た、誠大へ対する最後の抵抗の形だった。
 それが済むと、おかしなくらい音がクリアに聞こえるようになった。

足元から無限に分かれていたはずの道がいつの間にか一つに集約されていて、どうやら僕は戻るか、それを真っ直ぐ進むかしかないらしい。
勢い良く回る換気扇の風に揺れる、誠大の真っ直ぐな髪を見ながら、「それならば」と僕は思う。

 それならば僕は、少しでも音の聞こえる方へ進もう。
 そんな僕の決意を見透かしたようなタイミングで、誠大は話し始めた。

「昨日帰り道で会った、坂下という足を引き摺っていた男を覚えているだろう」こちらがアクションを起こすのを確認することもなく、誠大は続ける。「あいつのあの足は昨日、メールで送った通り、龍の仕業だ」

「誠大はそれを僕に伝えて、どうしたかったんだよ。僕にはそれが全然分からなかった」

「特に深いところまで、何かを考えていた訳じゃなかった。確かに俺は、龍がまた坂下に手を出したんだ、と知って驚いていた。
 別れ際、お前と言い合いになって、あの後ずっと頭に血が昇ったままだったんだ。だから俺は、お前が疑心暗鬼になっている向井龍之介という男の一つの顔を投げつけてやろうと思って、メールを送ったのかもしれない。無理矢理言葉にするなら“焦った”んだと思う。
 でももう一方じゃ、それによって今、お前がどれほど俺を信用しているのかを見極めようともしていた」

 真っ直ぐだと思っていた道は、思ったよりもゴツゴツしていて、気を付けていなければ簡単に足を取られてしまうみたいだ。

 僕は今まで何の疑問も持たず、自分の全てを曝け出してきた誠大の存在が、紙吹雪が散るように一瞬で立体感を失うのを見た。
これが大切な人を失っていく瞬間なのだろうか。
喉の奥や、目玉の奥の熱が上昇していくにつれ、動悸が治まらなくなってくる。

「信用とか、見極めるとか、何が何だか分からないよ。 “また手を出した”って何だ? 一つの顔っていうのは一体何だよ!
 僕は、凄く心配していたんだ、そのメールを貰って。向井が益々分からなくなったよ、怖かった。それで、その時向井の側にいたんだろう誠大のために、何が出来るだろうか考えたよ。そんなこと求められてる訳でもなかったのにな!」

 誠大は苦しそうにかぶりを振って、手元の水を一気に半分ほど喉に流し込んだ。

「いや、たぶん俺はお前に助けを求めていたよ、ある意味では。俺自身も龍のことが分からなくなって不安だったんだ。だけど、俺はどうしても龍のことを見捨てることが出来ない。俺があいつを救うには、どうしてもお前が必要だと思ったんだ」

「一体どういうことなんだよ。誠大と向井の間に、一体何があるんだ。何で、僕が必要だったんだ?」

 手が少し震えていた。自分では制御出来ないその震えは、思考さえ簡単にどこかへ連れ出して行きそうだった。
信じていた者の裏切りは、内臓さえも打ち震えさせたりするのだろうか。ひどく怖い。

 無意識に胃の辺りを押さえているのに、自分の体温が全く感じられない。
先行きの見えない不安というよりは、自分が何者も信じられなくなりそうな不安を感じていた。
だが、出来るだけこちらの動揺を悟られないように、僕は顔を上げて彼を見て言う。

「誠大は本当に変わったよ。二年に進級して、僕らの間に向井が加わってから、僕の知ってる誠大じゃなくなった」
「そう思われるのが、俺は一番嫌なんだよ」

 誠大は苦笑いすると、鼻の頭を指の腹で軽く擦った。
 餃子の皮の焼けた香ばしい香りが鼻腔を擽る。
こうしていると何ていうことのない日常をただ過ごしているような錯覚に陥ってしまうが、残念ながらそうではない。

 顔を上げると、彼もまた、いつの間にか僕の方を真剣な眼をして見ていた。

「ここに居る俺は、初めから全部俺が作ったものなんだ。といっても、このキャラクターの大筋を作り上げたのは中学の時だけど。でもだからこそ、何かのきっかけでそう思われるのがずっと嫌だった。嫌だったから、俺はいつも完璧で在ろうとしたし、完璧でいられないことが怖くて仕方がなかった」

「誠大は、僕にとっていつも完璧だったさ」

「いや、違う。結局のところ、お前も、お前の知る俺から少しでも外れれば、すぐに疑うだろう。きっと本当の意味での信用だって、ないはずだ。人の心なんて簡単に操れると思っていたけど、何かがちょっとズレただけで、もう一生元には戻らないんだなあ」

 誠大はそこまで言うと額の前で手を組み、項垂れ、自分自身を地の底に引き摺り落とすような笑い方をした。
僕は声を詰まらせた相槌をつくことしか出来なかった。
だが、誠大はかえってそれに安心したように先を続ける。

「出来るなら、俺はお前と、ただ普通の親友になりたかった。俺はお前がずっと羨ましかったよ。そうやっていつも真っ直ぐでいられる弱さや、素直の先にある鈍感さが、何より羨ましかった」

 まさか、と僕は思った。
誠大がそんな風に僕のことを見ていようとは思ってもみなかったのだ。

驚きは手の小刻みな震えまでも止めて、いつの間にか指先に熱が戻ってきたような気さえする。
僕は、ゆっくりと言葉を選んで、
「今からじゃ、もう、それは遅いの?」

 誠大がゆっくりと、だがこちらを見据えたまま首を左右に振って

「倖は今となっては……もう俺の駒でしかないんだ。そして、今その利用価値もなくなった。もう俺に使える戦略は残されていない、お手上げなんだ。俺の弱さと焦りが生んだ、完全な負けだ」

「話が全然見えないよ」

「俺にはもう、龍を変えることが出来ない。でも俺は、今のあいつを認めていたいと思ってしまってもいる」
誠大は涙を含んだような声でそう言うと、組んでいた両手で額を押さえた。
「でもこのままじゃ、きっと均衡はどんどん崩れてく。何もかも消えてなくなる!」

 店内に誠大の押し殺して潰れた声がヒューヒューと鳴った。
誠大がとてつもなく小さく見える。

あれほど僕の中で絶対的だった彼の中から吐き出された言葉は、空気に触れると一瞬でひび割れてしまうほどに弱く、その悲痛さはまるで海に流れた重油のように、僕から自由を奪い取っていく。

 目を凝らしても、誠大の中にある真意と真実はまだ見えない。
霧の中にうっすら浮かび上がる輪郭だけを頼って遠近感を測っているような状況で、もしかしたら物凄く近づいているのかもしれないし、まだその表面にすら届いていないようでもあった。

「まだよく分からないけれど、あの足を引き摺っていた坂下という人は、誠大のいう均衡ってやつが崩れた結果だったってことなのか?」

 僕の言葉に、誠大の隆起した肩がギリと動くのが見えた。
そして右の後頭部へふらふらと手が動いていき、その指が(まさぐ)るようにして髪の中に消えた。

彼の癖だろうか、僕は何度なくこの仕草を見たことがあった。
それは彼の、常に目まぐるしく動いている思考の波が突然静かになったりすると、出現するように思われた。

 僕は目の前のどんぶりも気にせず、誠大の、今まさに髪を弄っている右手首をテーブル越しに掴んだ。
瞬間、誠大の目玉がガタガタと振動するのを見た。

そして体内で何かが破裂したのかと思わせるほど、彼の体が跳ねた。
驚いて、僕は反射的に手を離した。

 誠大はまだ焦点が定まらないような目をしてテーブルの周囲を慌しく見回すと、喉に爪を立ててそのまま押し込み、深く息を吐いた。
そしてまだ苦しそうな息遣いで、すっかり萎縮した僕に

「悪い。コントロールが利かなくて」
 そう言うと、ちょうど右耳の裏辺りの髪の毛を逆立てて、僕に見せた。
「ここ、禿げてるだろ」

 かき上げられた髪の下には、皮膚ごと削り取られたかのような禿げが出来ていた。
僕はどう反応してよいものか困り、中途半端に俯いて目を逸らしてしまった。

「お前に全部話すよ。俺と龍の間にある五年間と、昨晩(ゆうべ)見せられた龍の狂気のことを。どうせ、もう俺に出来ることはないんだ」





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