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  Flow 作者:森カラ
第三章 ループ 一
 一月十日、火曜日、午前八時。
 その日は神木にとって鬱々とした日々の始まりでもあり、まだかすかに残った正義感と好奇心が再び疼く日でもあった。

 小さな木造アパートの一室から出ると、想像していたよりも冷たい風が彼の首筋を容赦なく直撃する。
神木はどんよりと曇った上空を見上げ、軽くため息をつくと着古してくたびれた茶色い皮のコートの襟を立て肩を窄めた。

「老人を殺す気か、この寒さは」

 余りの寒さにそう呟き、アパートの向かいにある駐車場とも空き地とも呼べぬ広場に小走りで移動した。
そこにはもう十年間も愛用している原付がある。

まるで同僚を労わるかのように二度ポンポンとサドルを叩くと、不思議と気分が落ち着くのを感じていた。
聞きなれた弱々しいエンジン音を響かせ冷たい風を切って走り出すと、ようやく自分の中に日常の緊張感が駆け巡り、まるでパズルのピースが嵌ったような感覚に満足した。

 同日、午前八時十分。
 今日は職場に出向く前に一箇所立ち寄るところがあった。

妻の墓だ。
ちょうど家から原付を飛ばして十分くらいのところにある小さな墓地に神木の妻、理恵は眠っていた。


 この日はやっと神木の一週間の自宅謹慎処分のあけた日であった。
 咥え煙草のまま警察内に入ると、すぐさま村上(むらかみ)香理(かり)がこちらへやって来て、神木の口から煙草を抜き取った。

村上は二十七歳と課の中では一番若いが切れる女で、少々ガサツな所がある。
だが現場において的確な判断力と行動力を持ち合わせており、根拠はないが刑事にとって必要不可欠な直感を上手く扱える優秀な刑事だ。

彼女はここに入ってきた当初から何かと神木が面倒を見ており、彼らの関わりはもう三年ほどになる。
昔ながらの地道な捜査に手を抜かず、自らの足を使うことに絶対の自信を持っている神木とは何度も衝突した。

しかしその度に村上は神木の長年凝り固まった価値観を揉み解すようにして、根気よく自分自身の考えを神木に言って聞かせた。
親子ほども年齢が離れていたし、時間もかかったがいつの間にか「課きってのコンビ」と言われるまでになりつつある。
そして今となっては村上は神木にとってまるで娘のようなものにさえなっていた。

 ――子供を望んでいたが叶わぬ夢に終わり、もう四十四歳になってしまった。

 そんな感情も加わり、村上を娘のように慕い、それが本来なら相性の合わなかったであろう自分たちを面白いほど簡単に引き寄せたのかもしれない、と神木は思う。

「あんだよ、村上。余計なことしなくていいんだよ」

 イラつきながら上目遣いで村上を一瞥してそう言うと、彼女は煙草を神木の目の前にチラつかせながら言った。

「あのねえ神木さん、今神木さんに死なれる訳にはいかないんですよ、こっちは。一週間十分休んだんでしょ、今日は私とみっちり走り回って貰いますよ!」

 村上はそう言うと少し躊躇してから、今神木から抜き取ったばかりの煙草の吸いさしを咥え、大きく息を吸い込み勢い良く揉み消した。

「お前、禁煙してんじゃなかったっけ」
「そうですよ」

 村上は自分のデスクに置かれた新聞紙を広げ、一面から確認するように捲りながら間の抜けた声でそう答えた。
神木はその悪気のない村上の返答にため息で返す。

そして一呼吸置き、新聞を一定の速度で捲るいつもと変わらない彼女の後姿を、まだ課の入り口付近でコートのポケットに手を突っ込んだまま見ていた。
そうしてこの忙しなさ、喧騒、身勝手に鳴る電話の音、その全てを全身で受け止め、ようやく不完全だった日常が何一つ欠けることなく自分の中に戻ってきたような気がした。

「そうですよって、今吸ったじゃねえか。しかも俺の吸いさし」

 まるでここを唯一の居場所のように感じていた自分に改めて気がつかされ、勝手に照れた言い訳をするように話を元に戻した。

「もうね、やってらんないんですよ、忙しくって。男ならいちいち細かいこと気にしないでくださいよ」

 村上は無駄を嫌う性分の為に、意味もなく話を元に戻されたことが癪に障ったのか吠え掛かるような勢いで巻くし立てた。
彼女の声はまるでマンホールの中で大声を出したように迫力があり、響く。

廊下を歩く職員がちらちらとこちらを探るように見ながら足早に通り過ぎて行った。
神木はつい懐かしいものを見た時のように笑うと、ようやく恐ろしいほど汚い自分のデスクに向った。

「まあ、神木さんの吸いさしだったって所はちょっと気にするべきでした」

 一週間分のメモなどの整理に頭を抱えていると、背後から冷静に分析を終えたのであろう村上の声がした。
普段の彼女の抑揚のない、落ち着いたどしりとした声だった。
その声を反芻しながら、またこれから自分は彼女と共に「終わった犯罪」を追うのだと神木は静かに目を瞑った。

「神木ちゃーん、今日からだっけ」

 突然肩にガシリと腕が巻かれる。

「三谷署長、今日からまた宜しくお願いしますよ」

 少し慌ててそう言うと、顔に綺麗に皴を作り始めた三谷が左眉をしかめながらニヤリと笑った。
相手を労わる時、三谷はいつもこうして左眉をしかめる癖がある。
それを見て神木は少し歯を見せて笑ってみせた。

 三谷は神木の一つ先輩に当たる男で若い頃は同じように現場を走り回っていた。
彼は堅実な男で無茶をせず、周りの状況を逐一判断するのが上手い一方で自己保身の強い男でもあった。
そして順調に昇進の階段を昇り、今はこの北上署の署長である。

「いやぁ、帰ってきて早々でかいヤマに当たっちゃったねぇ」

 三谷はやはり左眉をしかめながら神木の肩に回した腕を放し、その流れのまま神木の尻を軽く叩いた。
木は何を言われているのか分からないと言ったように、尋ねるように首を傾げて村上を凝視した。

村上は資料やら何やらでぐちゃぐちゃの机の上から車のキーを探し当てると、神木のしつこい視線に気づいたのかくるりと後ろを振り返った。
同時に懇願するような神木の目をもろに直視すると、ため息と共にキーを強く握りながら言った。

「ちょっと、どうして助けを求めるようにこっちを見るんですか。もしかして、まだ何にも聞いてないんですか」

 まるで不思議生物にでも出くわしたような顔をして、彼女はまた重低音を神木の耳の奥まで響かせた。
神木はそんな村上から瞬時に目を逸らすと、一週間前辞表を書くつもりでいた自分を思い出して少し笑った。

たかだか一週間前だが、あの頃の自分には新しい事件の情報を知る余裕など皆無だった。
少しでも手を伸ばしてしまえば辞める決心が跡形もなく消えてなくなるであろうことが目に見えていたからだ。

「現場に着くまでの間に話しますから早くお願いしますよ、神木さん。私、先に行って車回してきますから」

 激しいジェスチャーでそう言って小走りで去っていく村上を軽く目で追った。
スーツを翻し走る、迷いのないその背中に神木はつい数十年前の自分自身を重ねた。

「いや悪い悪い、まだ知らなかったのか。そうだな、あれはまだ第一報は流れていないかー。
村上ちゃんもああ言ったけど知らなくて当然だから気にするな」

 隣で三谷が少しすまなそうに頭を掻きながら言った。
何のことだと追及しようと思ったが、余りにも不自然な空気を感じて言葉を飲み込んだ。
その一瞬を見逃さずに三谷は話題のチャンネルを変えた。

「そうだ、神木ちゃん、今朝行って来たの」

 撫でるように優しく、気を使いながらも何でもないように三谷は言葉を発した。

「ああ、そうなんだよ、三谷さん覚えててくれたのか」

 神木はそのギャップに少し戸惑いを見せつつもすぐに返して、目を伏せ、感謝の気持ちを表した。
以前は目を瞑れば妻の姿がまざまざと映し出されていたのに、今では闇の中にポツンと淋しそうに佇む墓の姿が見えるだけになってしまった。
しかしそれは悲しみから脱出するために自らが呼び起こした結果だ。神木は小さく首を振り、すぐに目を開け今度はしっかりと三谷を見た。

「当たり前だろう、忘れる訳がない。俺も時間を作って絶対に理恵さんの所に顔出すよ」

 三谷は気を利かせたのか、神木の顔を見ずに言った。
流れるように発されたが、その言葉に込められた力と意思にはとてつもなく大きく強いものが感じられ、神木は彼の後姿に少し頭を下げて会釈をした。
そしてようやく今年も一つ肩の荷が取れたのだと自分に言い聞かせた。


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