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  Flow 作者:森カラ
第九章 月を太陽と間違えた男 七
 アリサは男の朝露に濡れてしっとりとしたような声を聞きながら、何かを思い浮かべているときのような表情をしていた。
そうかと思えば突然己の首を華奢な両手で絞め上げ、咽ては止めてみたりしながら幾度か唸る。そしてまだ納得がいかないような声であったが、

「うーん、違うなぁ。確かにアリサは、人生において在りもしない意味に固執してる訳じゃないんだけど。でも、殺した方が気分良いからっていう理由は、ちょっと調子良すぎだったかもしれない」
 テーラードジャケットの前を交差させるように掻き寄せ肩を竦め、白い息を作るのを楽しむように、そうっと一息吐いて続けた。

「……あいつは、井川倖は誠大さんの傍にひっついた害虫と同じなんだよ。そんなもの在りはしないのに、自分の生きる意味を探して、それに必死に縋ろうとしてるだけ。そうしていないとこの先ただ延々続いていくまっさらな時間が怖くて生きていけない。だから誠大さんに摂りついているんでしょ。
 許せないんだよね、アリサ。弱い自分の責任さえ取れずに、誠大さんを引き摺り回して、誠大さんから何もかも奪っているのが。あんな男、今死んだって同じじゃない」

「言うな。それがお前さんの根っこにあることなんだな」

 感心したように何度か頷きながら、握った手で口元を覆って笑いが漏れないように押さえている。
アリサはそれに追従笑いをすることなく、まだ自分の口を突いて出た言葉にしっくり来ないのか、伏し目のまま一点を見つめて眉根を寄せていた。
男は口元に中途半端な微笑を残したまま、

「もし、断ったら」
「あのサイトに出入りしている誰かにチャチャッと片付けてもらうだけだよ。でも、アリサはどうせなら向井君自身がやりたいんじゃないかって思ったから」

 アリサは俯けていた顔を急に上げると、真面目な面持ちで力を入れて言った。
思い切り顔を上げたせいで乱れた毛先が、彼女のグロスに濡れた唇に貼り付いている。

アリサはそれに気付くと、その毛先を細い指先でゆっくり剥がし、一度上唇と下唇を合わせた。
その仕草を見た男は口元から浮いていた笑みを消し、彼女を見つめたまま動きを止めた。

「フェアじゃないから言っておくけど」
アリサは男のことなど見ずに、突然思い出したような声で
「向井君はあんまり気にしないと思うけど、アリサ、警察の人に斉藤先生殺したの、たぶん向井君ですって言っちゃった」

「ガキみたいな顔して、随分大胆な脅しをかけてくる奴だな、君は」
「ちょっと、ちょっと。アリサ、向井君たちより年上なんだよ、一歳だけだけど。もう少し敬ってほしいなあ、お姉さんは」

 男は先程とは違い、まるで見惚れているような表情でアリサのよく動く口元を見ながら答えた。
だが、彼女の肩の辺りに視線を走らせると、先程までまだうねうねと漂っていた闇の勢力が全く衰え、空が明るみを帯びてきているのを確認し、徐にマフラーを少し緩めた。
それは焦りからなのか、マフラーの隙間から晒された首筋にはうっすらと汗を掻いている。

「交渉成立でいいんだね」
「もう一度言うが、俺は、お前のそのくだらない理由に付き合って面倒事に巻き込まれるのはごめんだ。だから俺は俺のしたいようにする」

 アリサはジャケットのポケットに勢い良く手を突っ込み肩を竦めると、俯いて真っ直ぐな黒髪に隠れて笑った。
そして眉の下で真っ直ぐに切り揃えられた前髪の隙間からそっと男を妖しく見つめると、男の目の前に乱暴な手つきで何かを包んだ茶色い紙袋を差し出した。

「自分の大事なナイフでやりたいかもしれないけれど、今の向井君にはあの男ごときを殺すのに、あの神聖なナイフを使いたくないでしょ。だから気が向いたらこれを使って」
「ナイフ、あのサイトで買ったのか」

「違うよ、アリサはあそこでリスクを買ってきたんだよ」
アリサは舌なめずりしてそう言うと、朱色のマフラーを巻き直しながら、
「それにはアリサの魂が塗りこめられているんだよ。色々な意味でね。穢れて、汚されて死ねばいいんだよ、あの人間は」

「……俺がやっていいんだな」

 男は茶色の紙袋の中身を確認することなくほんの一瞬だけ掌の上で弄ぶと、それを無理矢理コートのポケットの中に捻り込みながら言った。
そしてそのまま続けてダッフルコートのフードを頭にすっぽりと被せる。
だがアリサは男の質問には答えず、フードの闇に一瞬で同化した男を物珍しそうに見ながら

「報酬は何にしたらいい」

「いや、このリスクで充分だ」
男はポケットを上から二度叩いてかさついた音をさせると、続けて
「まだ、やるって決めたわけでもないし」

 アリサは「向井君らしい」と言いながら素直に笑い声を上げて、再びその声の大きさに反省すると赤い舌先を出して見せた。
男はそれを呆れたように、だが今度はどこかいとおしむように見ながら呟いた。

「アリサ、か」
「ようやく呼んでくれたね」

 既に背を向け、公園の奥へと入ってその場を去ろうとしていたアリサは、無邪気な子供のように振り向いた。
それに驚き、目を丸くさせた男に、安心し切った時にするような笑顔を向けて応えると、後ろ向きに歩きながら小声で囁いた。

「そうだ、向井君。いつかアリサが新しい宗教でも開くときが来たら、是非一緒にやろうね。勿論、その時には誠大さんも一緒に」

 言い終わるか終わらないかというところで、アリサはすぐに身体の向きを変え、ブーツの底で公園の磨り減った砂を散らしながら、走ってどこかへ帰って行った。

「今も、それと変わらないことをしているような気がするけどな」

 男はアリサの後姿が見えなくなろうという頃独り言を呟くと、踵を返し公園を颯爽と出て行った。
公園にポツンと立って、彼らの一部始終を言葉を持たずに見守っていた時計は朝の五時五十分を指そうとしていた。

 冬の朝の瞼は重く、まだ完璧に地面に光を届けさせている訳ではないが、多くの家々には既に朝は訪れているようで、時折漏れた生活音が早足で歩く男の足元にも気紛れに転がってくる。
だが男は特に気にしない様子で速度を落とすこともなく、幾人の人間と擦れ違っても全く動じず、不審に思われることもなくポケットに手を突っ込んだまま、朝の澄んだ空気に触れる前髪だけをうっすらと濡らしていた。




「わたしアリサ!」なんてノリで、突然こんな女が自分の前に出てきたら、振り返りもせず速攻で逃げます。
また他人事。

これで九章は終わりになります。
次から十章ですが、また少し期間が開いてしまうかもしれません。気長に待っていてくださると有難いです。こんなとこまで読んでくださってありがとうございますっ。それでは。
WEB拍手



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