第九章 月を太陽と間違えた男 五
黒い油絵の具の上にどろりと群青色が溶け出したような空の下、男は静まり返った住宅街の中を歩いていた。
ヒタヒタともザラザラとも音を立てない男は、さながら音という概念を初めから持っていないかのようで、その柔らかい四肢の動きは、まるで粘液状のそれにさえ見える。
男は既に初めに着ていたものとは違う、濃紺のフリースのジャージの上に暖かそうな黒いダッフルコートを羽織っていた。
首元には深緑と黒のボーダーのマフラーを巻いている。
等間隔に建てられた電灯の光にふわりと触れると、男は先程まで皮膚にきつく巻き付けていた鋼鉄のような殺気を微塵にも感じさせないのだった。
変わらないのは、頑なにポケットに仕舞われたままの左手だけだ。
それでも右手には、もう革の手袋ははめられていない。
修造の痩せ細った首を締め続けたあの手袋は、男の肩にいつの間にかかけられている、黒いトートバックの中に入っているのかも知れない。
空はまだ夜明けとの境界を彷徨っていたが、男の足元に貼りついた影は河川敷に居たときよりも確実にくっきりと躍りだしていた。
時折どこかから生活音に似た歪みが生まれ、その度に闇がずれる。
そして音が呼吸を思い出したように、四方八方で声を上げ出す。
くっきりと浮かび上がった影に、男はチラリと目をやると、肩のバックを掛け直し、歩を早めた。
「あのう」
男は背を流れ落ちる猫撫で声に、首は動かさずにただ黙って立ち止まった。
男が佇むと、その足元の影から闇が漏れて、広がっていくような圧力が生まれた。
「見ちゃいました、アリサ。あれ」
声の主は腕を交差して寒さから逃げるときのように擦ると、少し早口になって、だが明朗に言った。
男は立ち止まったまま、深い声で
「誰だ、お前」
「私の名前は桜塚アリサです。片仮名でア、リ、サ、可愛いでしょう」
アリサと名乗った少女は、男の声を聞いて、まるでスターにでも会った時のようにはしゃいで笑った。
だが、自身の高い声が住宅街に漏れると驚いたように両手で口元を押さえ、チロリと舌を出して子供のように照れた。
童顔な顔立ちの目元には、それを囲むように果てしなく暗い黒のシャドウが施されている。
そして黒い、メンズものともいえるほど大きなテーラードジャケットの下には、過激で露出の高いキャミソールが見え、その裏で顔に似合わぬ豊かな乳房がふるふると覗いている。
そして同じく黒い、ティアードフリルのミニスカートから、ガーターベルトで吊られたニーハイソックスを履いた足が突き出していた。
男はアリサの格好を目だけを動かしてざっと眺め、彼女の首に巻かれた、覚める様な朱色のマフラーに一瞬目を見開いたが、厳しさを含んだまま言った。
「いつからいたんだ」
「ふーん、一応そういうのは気にするの? 変なの。最初からいたよ。君が河川敷でダラダラビクビクしているときから」
アリサは顎の下に人差し指の先を押し付け、落ち着きなくぐらぐらと動かしながら、拗ねた子供のように上目遣いで男を真っ直ぐ見ていた。
男はトートバックを強く握り締めると、燻る雷鳴のような声で
「同じ目に遭わされたいのか」
「君はやらないと思うな。もしかしたらやるかもしれないけど、でもたぶんやらないと思う」
アリサは満面の笑みでそこまで言うと、内緒話をするときのように両手を口元へ持ってきて続けた。
「君はその大切なナイフくんを、アリサの血なんかで汚したくないはず。せっかく堕ちずに済んだのに、わざわざ神聖なそれを、汚したりなんてしないでしょう」
男はようやくアリサの方へ身体の向きを変えると、再び息を呑んだ。そして一度手首の甲の辺りで鼻の頭を擦った。
だが、目線だけはまだ一度も彼女から外してはいなかった。
「桜塚、と言ったか」
「やだ。アリサって呼んでよ。せっかく可愛いんだから」
「単刀直入に聞くが……桜塚は何の目的があって、俺に近づくんだ」
「強情っ張りはモテないよ、女の子に」
男はアリサの甘ったるい声を無視したまま、反対にきつく彼女を睨み上げた。
アリサは男の様子に下唇を突き出し、少しの間スカートの裾を引っ張ったりしていたが、やがて彼らの頭上にどこかの家から鳴ったのか、軋むような音が届くと、ようやく口を開いた。
「殺して欲しい人間がいるの」
「誰を」
男はやはり一驚することも黙考することもなく、下らない用件に答える時のように間髪入れずに聞き返した。
それからアリサは先程からは想像もつかないような大人びた表情で、男へ向かって妖しい微笑を浮かべた。
そして首を左斜め後方へ回すと、微かに洟を鳴らして、
「近いね。朝の、匂いがする」
男は微動だにせず、まだアリサを捉えている。
彼の足元から広がっていく闇も、街灯の光に圧され始めた。
彼らの姿が闇に隠れきれずに目立ち始める。
アリサは未だ口元に冷笑を残したまま、男の足元に伸びた影に視線を落として、呟いた。
「井川倖。殺して、井川倖」
言い終えて、すぐにアリサは挑戦的な瞳をして男を面白そうに見た。
だが、男のどの筋肉も全く変化を見せないのを見届けると、声は立てずに嬉しそうに笑った。
そして、突然大股で歩き出すと、同時に男の手を取り、そのまま男の腕に絡みつくようにした。
この住宅街をまっすぐ四百メートルも行けば、二日前、北高で数学教員をしていた斉藤義彦が死んだ公園に辿り着く。
それを知ってか知らずか、アリサは迷いなく漆黒のエンジニアブーツを鳴らして、冷たいアスファルトの上を軽快に歩き出した。
男は真意の見えないアリサにやきもきした様子で小さく舌打ちをしたが、無理矢理掴まれた腕を振り払うことはなかった。
依然出方を待っているような構えではあるが、しかし一方で湧き上がる興味を抑えられないような面持ちで、ただ引かれるがままアリサに続いて、夜の闇の中を再び滑るように動き出した。
この話の舞台のイメージは東京都の北区王子の辺りなんですが、正直に言いいますと北区王子の辺りは電車で通り過ぎたことしかなかったりします。
ですが、特別殺人事件の似合う街と思っているわけではありませんのでっ。
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