刃物で身体を傷つけるような、少々暴力的な表現があります。
そこまで過激ではないと思っておりますが、自己責任での閲覧をお願い致します。
第九章 月を太陽と間違えた男 四
男は遂に左手のナイフを逆手に持ち替えると、それに修造の顔を映してぼんやりと見た。
瞳の色を変えることなく、ただ静かに修造の顔が歪んだり、充血した眼から液体が零れたりするのを、角度を変えたりしながらナイフ越しに見つめていた。
先に沈黙を破ったのは、修造のほうだった。
「もう、日の光を浴びないつもりか、龍之介」
「父さんはいつからそんなにロマンチストになったんですか。そろそろ下らない話はやめにしようよ。生と死の狭間にだけ存在する、あの濃密な時間の中で、僕に命乞いをするんだ」
もう笑うことはなく、男は修造と同じく低い、温度の感じられない声で冷たい世界を造りだすと、逆手に握ったナイフを徐に見て、突然それを足元に落とした。
修造はその一瞬を見逃すことなく見届けると、驚きの中にも期待の色が混ざり合った表情で男を見た。
だが、男の口元が何かを刻み込むように動いたのを最後に、苦痛だけが全身を駆け巡るのに支配された。
まるで血が逆流していくような感覚と痛みが、修造の中を回りだした。
その薄れ行く意識の中で修造は、男は最後に「行くよ」と呟いたのだと認識した。
男は修造の目玉が弧を描き出すのを真顔で見つめながら、掴んだ彼の首を、力を入れたり緩めたりしながら絞めていた。
力を入れると小刻みに揺れる腕に何度か首を傾げると、苛立ちながらより力を込めた。
男の手が白くなるにしたがって、修造の顔は赤黒さを増していった。
男はそれから全く眼を逸らすことなく、むしろ修造の目の奥から何かを探し出そうとするように、睨みつけていた。
月が傾きだした。朝が近い。
彼らの足元の草たちも霜に覆われ、冬の夜風に揺られながら太陽を待ち望むようにざわざわを繰り返している。
だが、修造だけが鳴かない。
「苦しいでしょう、父さん。息が、吸いたいでしょう。酸素が恋しいでしょう」
男は思い余って、吐き捨てるように言った。
言ってしまった後に酷く後悔するような口元になった。
だが、修造が何かを漏らすことはない。
ただ痙攣する瞼の裏側で、目玉が黒目を隠そうとし始めているだけだ。
だが男は突然ハッとしたように瞼を見開き、修造から目を逸らすと鋼鉄のように硬くなっていた両手の力をすうっと緩めてしまった。
足元の霜に濡れたナイフが月の光を吸い込み、眼の端を擽ったのに気を取られてしまったのだった。
修造は口元から涎を垂れ流しながら、酸素が届かないせいで不自然に固まってしまった手のひらを、目の前の男の顔の前まで何とか持ち上げようとしていた。
気配を感じたのか、男が咄嗟に振り向く。
すると、修造の左手が男の右頬に押し付けられるように触れたのだった。
男は目を見開いて、あ、と声を漏らし、思わず修造の首から両手を振りほどくように離した。
そして小刻みに吐き出される息と同時に、何度か声を漏らしながら足元のナイフを拾い上げ、崩れていく修造の左手をすぐさま締め上げるように掴んだ。
咳き込む力も残っていないのか、修造は左手を掴まれた状態で地面に崩れ落ちると、口から泡を吹き出し、激しく痙攣し始めた。
男はそれを荒い呼吸を繰り返しながら見つめると、突然グチャグチャに顔を歪めて修造の左手をナイフで切り落とそうとした。
だが、さすがに一度では切り離すことは出来ず、男は左手を自身の右足で踏みつけ、鋸で丸太を切るときのように前後にナイフを動かし続けた。
流れ続ける血液は月明かりを浴びていても、深い闇のように黒い。
修造の血液は、男によって冷たい土の上に曝け出されると白い湯気を上げて彷徨い始めた。
粘り気のある湿りが男の肌に張り付き、男は何度か皮のジャンパーの袖でじんわりと濡れた首や額を拭った。
立ち昇ってくる鉄の臭いに、徐々に男の顔が恍惚に染まっていく。
それに伴い、男の緩慢だった動きが俊敏になっていく。
そうして修造の肉体から左手首だけが離れようという頃、修造の痙攣が止まると同時に、乱れたまとまりのない髪が彼の顔を隠したまま拍動も止まった。
その伸び切った黒々とした髪は、まるで死人に被せる顔覆いのようだった。
血溜りはブラックホールのようにまあるく彼らを包み、男は何度かその上で嬉々として跳ねた。
そうして真っ赤に染まったナイフを月明かりに翳し、まるで勝ち誇った勇者のようにそれを高く掲げる。
それから、その血が柄を伝い、革のグローブを汚す手前で男は腕を戻そうと力を抜いた。
だがそれは役目を終えたのではなく、スピードを伴ったまま石のように動かなくなった修造の心臓目掛けて振り下ろされたのだった。
朝は近付いているようで、まだその姿を晒すまで時間が掛かるだろう。
依然として煌々と照る月の下で、蠢いているのは流れ出る血液と、揺らぐ湯気と、男の規則的な呼吸で動く肩しかない。
殺しの描写はさほど悩むこともなく書けるのではないか、などと高をくくっていましたが、恐ろしいほど全く書けませんでした。あまりの書けなさっぷりに、やはり実際に経験してみないと分からないものなのか、と非常に危ない方向へ自分を追いやりそうになりました。(笑うところですよ)
しかしこんなに難しいものだったとは……精進しますっ。
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