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  Flow 作者:森カラ
第九章 月を太陽と間違えた男 三
 数秒の間だが、彼らの間にとてつもなく濃い、酸素の薄い空気が漂い始める。
そうして今日、初めて彼らはその眼同士を否応無く突き付けあったのだった。

彼らが視線を重ね合わせるのを待っていたかのように、月がまた少し傾いて彼らの横顔をはっきりと照らした。
男は一瞬目線だけを月の方へずらすと、光を受けている方の頬だけ恍惚として歪ませた。

「龍之介。許してくれ」
修造はわなわなと肩を震わせながら、漏れ出るように呟き、男から目を離した。
「あれは魔が差しただけなんだ。荒んでいく感情を止められなかった。私の弱さが、お前をそうまで追い詰めていたとは」

「目に全く力がないじゃないか! つまらない。それじゃあ、全く意味がないんですよ、父さん!」

 修造が言い終わらないうちに、捻るようにして修造を突き飛ばすと、足元に転がる彼を見ながら舌打ちをした。
そして男は自分の影によって黒く染まっていく修造を見下げながら、とうとうナイフの切っ先を彼に向けた。
ナイフは男の左手の先で、様々なものを反射してはなめし皮のようになったり、鋼鉄のようになったりしているように見える。

「お前は何を望んでいるんだ。私に出来ることなら何でもする。だから、それをこっちに寄越しなさい」

 最後の余力を振り絞るようにして、修造は男に懇願した。
だが、それは弱弱しいもので、所々が風に煽られた川の飛沫に掻き消されてしまった。

「父さんにできることは、ないよ。でも、もし父さんが最後まで父親としての責任を果たしてくれると言うのなら、僕も父さんが行ったところへ連れて行ってよ」

 修造は息子である男の目が徐々に力を帯びていくのを見た。
チラチラとナイフに反射する月光が、男の目を掠める。

まるで人のものとは思えないほど、強く男の眼が光り輝いた。
それを見ながら、修造は喉の奥深くまで乾いていくのが分かった。

それは恐ろしいほど冷たい空気が粘膜に張り付いていく、とも言えたが、熱を帯びて喉の粘膜を溶解していくようにも思えた。
修造は自身の両の手を見つめ、それが小刻みに震えるのを抑えようと強く握り締めると、麻痺してしまった喉の奥に無理矢理唾液を流し込み、ようやく言葉を繋げた。

「それは、あの日のことを言っているのか」
「そうだよ。父さんが母さんの首を絞めて、殺そうとした日のことだよ」

 男は言って、修造の前で首を絞めるジェスチャーをして、前触れ無く、絞める真似をしていた両手を強く握り潰すようにした。

「やはり、お前はあれを全部見ていたのか」

 修造は嗚咽に近い声でそう言うと、再び男の目を正面から見据えた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。

修造の目はいつの間にか真っ赤に充血しており、時折カサついた頬の上を透明な雫が零れ落ちていく。
だが、彼らを取り巻く闇の深さは一向に変わらない。

「スカスカだった僕の時間が、濃い液体で満たされていくようだった。あの感覚は」

 修造は止め処なく流れていく涙も乱れた髪も、風に煽られる襤褸切れのような服も気にする様子はなく、だが口を半開きにし、行き場のない両腕が男に向かって伸びそうになるのを何度か抑えた。
それはまるで男を抱きしめたがっているように見えた。

「龍之介。私はお前に殺されても仕方が無い、と思っている。だが、私はお前に殺人犯にはなってほしくないんだ。お前の手を汚したくない。どうしてもというなら、私が自害する。だから、それをこっちに寄越してくれ、頼む」

「あそこへ行ったのでしょう? 父さん。どうしてそこまで、僕もそこへ行くことを拒むんだ」

「違う、拒んでいるんじゃない。私はお前には間違いを犯して欲しくないだけなんだ」

 突然見開かれた男の目に修造はたじろいだ。
まるであの日、自分が首を絞め続けていた妻の小枝子の目に、それは余りにも似すぎていたからなのだった。

「僕は見つけたんです。あの濃密で、スリルの詰まった、ギリギリの一瞬を」

 男が大きく息を吸う合間に、革のグローブがナイフの柄をきつく握る、まるで急ブレーキのような音が鳴った。

「あと一歩なんですよ、父さん。あと一歩で僕は、レベルが上がるんです。父さんが僕の生きた時間の中で生を感じて、焦がれて消えてくれれば、僕はきっともっと強くなれる」

「龍之介、一体お前は何を言っているんだ」

 独り言のような低い声で言い、修造は黒く汚れた自身の人差し指でナイフを指差した。
だが、その指の酷い(あかぎれ)からうっすら赤い血が滲んでいるのを見て、修造はその手を反射的に仕舞って続けた。

「そのナイフで、私を殺せば、お前はただの殺人犯でしかなくなるんだぞ。未来も可能性も、お前の持っているものは全てなくなってしまうんだぞ」

「何を言っているのか分からないのは父さんの方ですよ。これがあるから僕は馬鹿な人間たちとは一線を画しているんだ」
 男は言いながら、握り締めたままのナイフを再び月に翳して続ける。
「何にも気付かず、いや、むしろ何一つ追求することなく、ただのうのうと時間を浪費しながらぼやくだけぼやいている奴らこそ、未来も可能性も持っていない。いいや、自らの手で、それらを握り潰しているといっても過言ではない。そうとは思わないの。
 だから父さんも、あの馬鹿な女を殺そうとしたんでしょう」

「違う」

 修造は言って、慌てて俯いた。
咄嗟に「違う」と口を突いて出てきたものの、それは音にしてしまうと、本当に自分の心の内から這い出てきたものなのか、自信がなくなってしまったからだった。

「父さん、本当に分からないの。僕は今、輝いているでしょう。あの時、父さんだってそうだったくせに」

 修造は再び口元を突いて出そうになる言葉を飲み込むようにして、苦渋に満ちた顔のまま喉を鳴らした。

「私は小枝子にあんな酷いことをしてしまったことを、とても後悔しているんだ。まともな精神状態じゃなかった、あれは。
 私は自分から全てのものが消えて、まっさらになったとき、小枝子が許せなかった。いや、私から去ろうとしている小枝子を責めることで、自分を肯定しようとしていたのだろう」

 突然声を押し殺した、息の漏れる男の笑い声が彼らの足元を転がりだした。
男は何とか笑いを堪え、抑えると、

「そんなこと、どちらでもいいよ。父さんがあの時どんな理由で母さんの首を絞めたとか、そういうことは何一つ重要なことではないんですよ」

 何度目かの沈黙のベールが降ろされ、だが彼らは微動だにせず、厚い雲と遊びだした月の下で夜の闇にただ染まっている。
修造は男の腹の内を何とか探ろうとしているのか、落ち着きなく男の目を盗み見ては、だが時折後悔に突き落とされたときのように眉根を寄せて、大きなため息を吐き出していた。



何を考えているのか分からない「男」の言うことを真剣に聞いていると、頭がおかしくなって悪酔いのような気分になってきます。
これを相手にしている修造さんは大変だろうなあ、と思いました。
……などと他人事のように言ってみる。
書いているのは私だ。
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