第九章 月を太陽と間違えた男 二
襤褸を纏った男はついに顔を上げると、“父さん”と言った男の顔を一つ一つ確かめるように見た。
同時に、先程までナイフを持った男の背を照らしていた月が、まるでスポットライトの役割を担ったかのように、寸分の狂いなく二人の横顔を照らした。
そうして、今、目の前でナイフを愛でている少年が自分の息子であることを、襤褸を纏った男、向井修造は確信した。
「こんな時間にどうしたんだ? そんなものを持って」
「今のはごめんなさい。あれはいちおう、息子として母の立場に立つならばひとつのポーズとして、しておいたほうがいいかなと思いまして」
男は照れるように、はにかむ口元をわざとらしくナイフで隠しながら、修造の問いを無視して言った。
修造は厳しい目つきで男を見ることが憚られる様子で、心持ち視線を斜め下に投げながら長くため息をついた。
「どうして、私がここにいることが分かったんだ」
黙ったままの男の持つナイフの切っ先から零れだしそうな一瞬の光に、瞼を閉じて続ける。
「ああ、もしかして友達に聞いてきたのか」
「何を言っているんですか」
男は眉をしかめたかと思うと、突然踵を踏み鳴らして問い質した。
男の足の下敷きになった青草が、徐々に湿り気を帯びて腐っていく。
「あの子は、私のことを知っているようだった。それに、お前のことをひどく気にかけている様子だったぞ」
修造は呼吸の荒くなった男を視界の端に捉えながら、その左手に握られたナイフの動向を逐一見逃すまいといわんばかりに、背を丸めたまま唾を飲んだ。
喉が鳴るのと同時に男の口元が小さく何かを口走ったように見えたが、修造は特にそれを追及せずに、
「小枝子は、幸せにやっているか」
「ええ、それなりに。それより父さん、そんなに無理しないでください。金なんて、もうないのでしょ」
「……確かに」
修造は皮肉な笑みが口元を形作るのを止めるように、引きつった表情で、
「確かに、もしお前が金のことで来たのなら、正直なところ力になるのは難しいかもしれない。小枝子とお前には死んでも侘びきれないと思っているよ。本当に申し訳ない」
男は未だ漆黒より暗い瞳をしていたかと思うと、突然醒めたようになったりしながら、修造の痙攣する表情を見ていた。
ナイフはその間、男の額の熱を奪ったり、男の吐く熱い息を吸い込んだりしている。
「父さん、謝らないでください。僕は、父さんにはこれ以上とないくらいに感謝しているんですから」
男は頭を下げている修造に向かって優しい声でそう言うと、ナイフの先で自身の人差し指の第二間接辺りを、マッチで火をおこすように躊躇い無く切った。
マッチがジュッと空気を焼く音を発するように、ジュワっと赤黒い血液が這い出てきて、それはやがて男の足元にポトポトと痕を残した。
修造は下げていた目線の先に、突然赤い液体が落ちてきたのを見るや否や、素早く顔を上げ目をひん剥いたが、男を見て息を呑んだ。
男は叱り付ける父親の顔をさせることさえ許さない様子で、切れた指の先に、まあるい眼をして表情も無く修造を見つめていたのだった。
「父さん、頼むよ、失望、させないでくださいよ。あの時の父さんはどこへ行ってしまったというんですか。
あの時の父さんが本物なら、僕は父さんが何になっても、何をしていようとも関係ないと思ったんです。いや、尊敬にさえ値した」
「私は恨まれて当然なんだ。お前は父さんを罵倒したっていいんだぞ」
修造は半ば疑問を浮かばせたまま、だが苦痛に顔を歪めるときのように苦しそうに言葉を吐き出した。
しかし襤褸の袖で口元を覆うと言いよどんだ。
「あの時、とはまさか」
「父さんは僕に答えを教えてくれた。言葉にも形にもならない、確かなものを掲示してくれた。父さんの血が僕の中にも、確かに流れているんですよ」
そこまで言うと、男は眩しいほどの笑顔で続けた。「僕は堕ちなくて済む」
修造の言葉を遮って、男は切れた指から流れる血を修造の前に突き出した。
先程から吹き荒ぶ突風が、男の玉になった血液を掠めて、その皮膚を走る一筋の赤い川を氾濫させる。
そして男は、目の前の焦点の合っていない修造を無視して、踏んだままの腐った青草を踏みにじるように、数回靴底を地面に擦り付けると、
「そうして、あいつも僕の手で救うことが出来る。あの時離してしまったあの手を、僕は父さんのお陰でもう一度掴んで、引っ張り上げることが出来そうなんですから」
「ちょっと待ってくれ。何を言っているんだ、お前は」
修造は差し出されたままの指には目もくれず、今度は息子である男のことを、口元を覆ったままの襤褸の袖から真っ直ぐ見据えると続けた。
「父さんは、お前にあのことを謝りたいんだ」
「謝られるようなことは何一つないと言っているじゃないか」
修造は「ああ」とため息をついて、握り拳を自身の腿に音を立てずに押し付け、
「私のせいだ、全て。私の」
頭を垂れて、何かを打ち消そうとするときのように首を左右に振っている修造を、男は突然荒く熱い息を思い切り吐き出すと、修造の襟首を掴んで自分の顔の傍まで引き上げた。
「聞けよ。だが俺はあんたを排除しに来たんだ。もう、いらないんですよ。そして、俺の糧になってくれるでしょう? 父さん」
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