第九章 月を太陽と間違えた男 一
一月十二日、木曜日。午前四時三十五分。
男はガムを吐き捨て、再び慎重に腰を上げた。
先程よりもナイロン着の擦れあう音は響かない。
男はふいに、前触れなく高々と昇った月を見上げる。
その口元は端を、天空から糸で引っ張り上げられているかのごとく、見事に吊り上っている。
男は月に、握り締めたままの左手のナイフをかざして反射させる。
途端に、どんよりと重たい鉄の塊だったものが、目を覚ましたかのように男の瞳へもその光の粒を投げた。
男はいつかのように、皮の手袋を二、三ギリリと鳴らすと、ナイフを縦横へ振った。
しっとりと空を切る音がする。
まるで作られた効果音のように出来すぎたその音に、男はふんと洟を一度鳴らした。
見据える先は変わっていない。
男が立っている側の河川敷下の、今にも崩れそうなダンボール小屋だ。
まだ、風は止まない。
時折、吹きつける風でダンボールの一端がベラベラと音を立てて、翻る。
男は片目を瞑り、ナイフの先をその剥がれた一端に向け照準を合わせると静かに舌なめずりした。
ヌベリとした唇が、流れる雲から不定期に顔を出す月を受けて光りだす。
それは先程、ナイフが息吹くのを始めたのに似ていた。
男は河川敷をゆっくりと降りていく。
滑るように、だが、踏みしめるように、ただゆっくりと音を伴わずに影だけを連れて降りていく。
忘れた頃に、遠雷に似た飛沫の立つ音がする度に、男は深くまでかぶったニット帽を、何度も引っ張っては下げた。
徐々に闇と夜に同化していく男を、月は追いかけっこを楽しむように、照らしたり黒く染めたりする。
だが、月が男を照らしても、男の着ているナイロン着は、恐ろしく濃密な黒のまま変わらない。
男が緩慢な動きでダンボールの一部に触れている。
まるで生き物の鼓動を確かめているときのように神妙で、だが昂ぶるようなそんな面持ちで触れている。
剥がれていた一端は、男の存在に気付いていないかのように風に煽られている。
男はそれに一瞥くれると、続けてナイフを持った左手を確かめるように握った。
そして、祈るように右手を胸の前に置き、背を照らす月を仰ぐ。
もの悲しいときにするような眉を作っているが、祈りがそうさせているのかは分からない。
男は僅かな間そうしていると、急に醒めたように目を見開いた。
何かの覚悟が決まったときのようでいて、あるいは自信に漲っているときのような覚醒といったほうがいいかもしれない。
目玉だけが男の一部を離れ、別の生き物のように、全ての事象を反射させながら四方八方を見回す。
そうして、すぐ後に男は躊躇なく足を踏み鳴らした。
ナイロン着が落雷のような音を発する。
それに続いて、ダンボールの中から、人の息遣いと、靴底が砂を擦る音が鳴る。
途端に、均衡が崩れ落ちたかのように風さえ止んだ。
まるで周囲が凪の海に変わってしまったかのように。
男は左手に持ったナイフを構えることもせず、ただそれも指の一部だとでも言うように拳の中に納めたままだ。
今、ここで動いているものは、風に揺れる土手の青草か、ダンボール内が不穏な音を発するたびに反射的に揺れる、男の左腕だけだ。
全ての音があるべき場所に戻ったように、ブレることさえなくなり、男は瞬きさえ止めてダンボールの中を透視するかのように強く見据えた。
どのくらいの間風も音も止んでいたろうか、突然、男の足元の正面からダンボールの一端が開かれた。
昨晩の雨でふにゃりとしてしまったボール紙は、カーテンのように見えるほどだ。
静寂を破るようにして開けられたそれは、だんだんと内にいる人間を露にさせていく。
男はそれを凍るように冷たい、据わった目をして見ている。
漆黒の目だ。
いつの間にか何の光も映さなくなってどんよりした瞳は、汚いものをみるかのようにその一連の一点に固定されている。
中から這い出てきたのは、一見熊のようにも見える、図体のでかい人間だった。
纏った布は襤褸切れの如く千切れ、それがふわふわと風に揺れて毛のように見えるのだった。
ナイフを持った男と同じくらいに真っ黒なその人間は、膝を手で押さえ、ようやく立ち上がり、だが肩を竦めたまま地面を向いている。
ぞぞと伸びた、長さも疎らな髪は肩の辺りまであるが、口元をごっそりと覆った髭が男性だと証明している。
男は未だナイフをダラリと持ったまま、右手も自身の腿の前に力なく降ろし、だが目線だけは変わらず厳しいまま、突然襤褸を纏った男に向かって頭を下げた。
橋の下で男によって起こされた衣擦れが、鉄骨に反響してより大きな塊となる。
襤褸切れを纏った男は捩れた髪を少し震わせて反応すると、先程よりも下を向いた。
ダンボールから顔を出したときより、二回りは小さく見える。
男はそれを見ながら、目の前の人間の足元に唾を吐いた。
空気を破るような音がして、男の唾液はちょうど襤褸を纏った男の穴の開いた靴から飛び出た足の親指を汚した。
ホームレスは濡れた自身の足を見つめたまま、代わりに男の足元に向かって、小さな言葉を吐き出した。
「龍之介なのか」
男は微動だにしないまま、どこまでも暗黒色の瞳で襤褸を纏った男を見ていた。
だが、舌で乾いた唇を一度なぞると、卑しい八重歯を見せて笑った。
「このときを、僕はどれだけ待っていたと思う? 父さん」
男はそう言うと、襤褸を纏った男から目を離さずにナイフを鼻にピタリとつけて、誰も吸ったことのない濃い空気を吸い込むように深く、その臭いを楽しそうに嗅いだ。
私事で申し訳ないのですが、諸事情のために今後も更新が遅れると思いますっ。すみません。
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