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  Flow 作者:森カラ
第八章 疑念 十
 俺はたぶん、その瞳を見たことがある、覚醒の始まりにあるような、そんな瞳を。

 だが、それがいつのものだったか上手く思い出せない。
そのうち神木は己の鼓動の高鳴りが頂点に向かって走り出すのを感じ、眉間に皺を寄せて目を瞑った。

そして苛立ちや興奮、焦りが混ざり合ったものの中に溺れようというとき、村上が神木の肩を強く掴んだ。
神木がハッとした顔で村上を見返す。その村上の顔が、まるで自分の胸中が見透かされたように見え、神木は苦笑しながら古寺を振り返った。

「事件にはしなかったのか」
「はあ、言えば、警察はとりあえず俺をパクると思ったんで」
「それ以来、変わったことはないのか」

 古寺は種々の感情が入り乱れた顔をして頷き、神妙な面持ちの神木と目を合わせると突然思い出したように、

「そういや一人で龍之介の巣窟へ乗りこんでいったガキも、思いつめた顔をしていたようだった」
「あのガキとは、さっき小枝子が言っていた、訪ねに来たという龍之介の友達か」

 古寺が再び頷く。

「ハッキリ言って、俺はもう龍之介には関わりたくない。だから住所を教えてやったんす、あの少年に」
「古寺。その少年に教えた龍之介の住所を、俺たちにも教えてくれるな」
「……分かった」

 古寺は村上から差し出された紙切れを膝の上に乗せ、緊張した様子で書き始めた。
そして終えると、一度迷ったような仕草を見せたが、すぐに村上にそれを渡した。

「感謝する」

 神木はそう言うと、緊張していた身体をシートに(うず)め、徐に煙草を取り出し、そのまま口に銜えた。
そして、一度だけ大きく吸う。

もう既に車のドアを二十センチほど開けていた古寺が、神木の重たいため息に、そろりと出しかけていた左足を反射的に引っ込めた。
その様子をサイドミラーで見ていた神木は、タイミングを逃さず、

「でもなあ、古寺。龍之介への送金を掠め取るのはやめろ。正直に話してくれたんだろうが、それで心証が良くなるだろうなんて、思ったわけじゃないだろう?
 俺は盗犯(盗犯係)じゃないし、お前にどうこう言う筋合いはないが、そろそろ更生したらどうだ」

「やだな、刑事さん。俺、真面目に生きてますよ、それなりにね」

 古寺はようやくホッとした表情を僅かに滲ませながら笑った。
そして、今度は初めから大きくドアを開けて外に出る。

神木はその音を聞きながら、銜えたままだった煙草に火を着けようとポケットを探った。
すると神木の脇からシガレットライターを持った村上の手が伸びてきて、煙草の前に突き出された。
神木は片眉を上げてニヤリとすると深く息を吸い、舌を転がる微かなバニラの香りを追いながら、ざわつく胸を鎮めようと再びゆっくりと息を吐き出した。

 ドアが強く締められた反動で車が揺れて、村上が神木側のウィンドウを開けると、古寺が覗き込むように身を屈めた。

「さっきの件、どうか頼んますよ。大体ね、刑事さんが更生云々いうのは俺じゃなくて、龍之介すよ」

 古寺は声量を抑えながら、だが念を押すように強くそう言うと、勢いを増してきた雨も全く気にしない様子で一度上空を仰ぎ、小走りで向井家に戻っていった。

「信じますか。今の話」

 遠ざかっていく白いTシャツをまだ見ながら、ゆっくりと村上が言った。
言い終わる頃には古寺の背中は霧雨によって発生した(もや)と同化して、見分けが困難になっていた。
依然煙草を吸っていた神木は、肺の隅々にまでいきわたるように大きく吸うと、煙草を口元から離し、そのぼんやりと赤く点る火を見ながら、

「嘘をつくとしたら?」
「ただ、自分がここで奥さんと好き勝手暮らすのに、龍之介くんが邪魔なだけとか」

「陥れようとしてるってことか? いや、そうじゃないな。あの怯えようは本物だ。それに、古寺って奴はああいう奴なんだ。自分の不利益を解消するためには、人に媚びるし、人を脅す」

 神木は視界を扇ぐように、右手を振るのと一緒に首も左右に振った。
村上は、神木の言葉が終わらないうちに(こうべ)を垂れた。

まるで、その答えが分かっていたかのように、タイミングよく俯いた顔には動揺の色がのっている。
神木はそれを目の端で捉えながら、確かに、もし本当に龍之介が、この教員殺しに関わっているとしたらと考えるのは非常に過酷なことだ、と思った。
少年犯罪を自分自身が検挙することに、未だ強い嫌悪感を持つ村上が躊躇するのも無理はない。

「奥さんが龍之介君の居場所を隠している、その裏には何があるんでしょうか」

 村上はいいながら、眠った玩具の国のように静まり返った住宅街に、イグニッションキーを回してエンジンをかけた。
その嘶きと身体を伝わる振動と反対に、静寂なままの向井家を見て神木は腹を固くした。

「龍之介は母親と上手くいっていないのかも知れないな。親の別居、離婚の間に何かあったと考えるべきか」
神木は短くなった煙草を思い切り吸ってから人差し指と親指で摘むと、灰皿に押し付けて続けた。
「ただ、小枝子の、俺らに対するあの警戒心は古寺を愛するが故、だろうがな」

「愛する、とか……今日は疲れますね」
 村上は脇で携帯電話の電源を入れる神木をチラチラと見ながら、感情を込めて言った。

「若いのに、お前は。得意分野じゃないのか」
「ほっといてください」

「とりあえず、この住宅街から出て、どっか適当なところに停めてくれ」

 神木は拗ねる村上をやり過ごしながら指示すると、携帯電話の着信履歴から“三谷”を選び、一旦ウィンドウの外のグレーの世界に目を移した。



神木の奴が、セクハラまがいのことを言っていますが、生温かい目で見てやっていただけると幸いです。
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