第八章 疑念 九
少しでも自分を大きく見せようと居丈高になっていた古寺だったが、声にうっすらと不安定さが滲み出してきていた。
いつ小枝子が、戻りの遅い自分を心配して見に来るか心配なのだろう、と神木が思っていると、村上の気の抜けた声が右耳を過ぎった。
「でも、それとあなたが逃げようとしたのと、何の関係があるっていうの」
「その龍之介の取り分、三分の一を送金していない」
いよいよじっとしていられなくなった古寺が腰を浮かせるようにして、体勢を整えた。
左手はインナードアハンドルに掛かっている。
いつでも車から出て行ける格好だ。だが神木は悠揚迫らぬ態度で、
「どういう意味だ」
「そういう意味すよ」
肩を上下させて失笑しながら続けた。
「わかるでしょ? ね、刑事さん。小枝子は俺にゾッコンなんすよ。そして俺も」
「でも息子を溺愛しているように見えたわ」
村上が古寺の歪んだ口元から目を逸らし、顔を背けたまま吐き捨てるように言った。
すると少し真顔になった古寺が、早口を抑え、自分の言葉の意味を一つずつ追うように、
「俺もそう思ってたすよ。でもそうじゃない。あいつは“息子を愛する自分に酔いながら、現実を直視していない”だけか。あるいは“息子が、母親である自分を、自分が思うようには愛していないことを認めたくないだけ”か、そのどちらもか」
「ちょっと待ってくれ」
何かを思い出したような顔をして、古寺がインナードアハンドルを強く握り締める音を聞きながら、神木は言った。
「段階を追って話してくれ」
「悪いが刑事さん。そんな時間はないんすよ。それより俺を守ってくださいよ」
「何から」
「龍之介からすよ」
神木は息を呑んだ。
まさか、こんな展開になるとは、そう思った。
誰も声を上げないことに痺れを切らした古寺が背後で動く衣擦れの音が神木の耳に飛び込んでくる。
その向井龍之介という人物が一体、この教員殺しのどのあたりに絡んでいるのか、判然としなかった。
神木は先程の三谷の突然の電話では殆ど何も聞かされていなかったのだった。
ただ「向井龍之介」なる人物が斉藤を悩ませていたかもしれない、ということだけしか言えない。
だが、ここにきて古寺のこの怯えた様子は何だ、と神木は古寺の恐怖の色濃く出た眼を見た。古寺は逮捕したときから自分より強いと判断した奴には、その怯えと態度を顕著にするタイプの人間だったが――。
その時、タイミングよく神木の胸の内ポケットの携帯電話が小刻みに震えだした。
村上の怪訝な表情を無視してそれを取り出し、さり気なく窓を見ると、そこには署長の三谷の名が表示されていた。
神木は数秒逡巡すると、携帯電話の電源を前触れなく切った。
口をあんぐりと開けている村上の視線を受け流しながら、神木は再び口を開いた。
「何でお前の口からそんな台詞が出て来るんだ」
「小枝子は俺にも皆まで言わないすけど、龍之介との間に何か決定的なことがあったのは確かなんす。その証拠に龍之介の居場所を知るのは、俺と小枝子と、今日訪ねてきたガキしかいない。龍之介が誰かに言った可能性は充分にあるけどね。まあ、俺は奴に友達がいたことさえ驚いたが」
そこまでいうと、苛立ちと焦りがない交ぜになった表情で神木を見据え、
「あいつはそれを徹底的に隠しているんだ。何かに怯えながら」
「質問にちゃんと答えろ。その前に、お前は龍之介との間に何かあったのか」
動揺を見透かされないように、神木はなるべくゆっくりと諭すように言った。
「ガキが相手だと思ったんだ、俺は」
まるで焦点を定められない様子で、古寺は忙しなく四方八方に視線を向けながら声を揺らした。
その間、両手は硬そうなジーンズの生地をきつく握り締めている。
いつの間にか霧雨が雨に変わり、車のウィンドウを叩きつけては、風に揺れるカーテンのようにゆらゆらと流れ続けている。
これは急がなければ、本当に小枝子が不審に思ってこちらにやってくるかもしれない、そう思った神木が玄関の方へ視軸を移したと同時に、古寺が声を上げた。
「一度脅したことがあったんす。俺が、この家で悠々自適にやっていくには、龍之介に力関係を示しておかなければ、と思ったから」
「バカバカしい」
村上の罵倒が飛んで、殊勝になっていた古寺もさすがに癇に障ったのか、勃然として
「今は反省してますよ! それはすぐに後悔に変わったし」
そして突然、古寺は神木に向かって、薄手の長袖Tシャツを胸の辺りまで引き上げた。
「刑事さん、この傷跡を見てくださいよ。これは龍之介に刃物でやられた傷です」
神木と村上の目の前に、胃の辺りの皮膚が横一直線に白く盛り上がった裂傷の痕が露になった。
古寺のもともとの浅黒い肌の上に堂々と存在しているそれは、より目立ち、まるで体内を駆け巡る蛇のように神木には見えた。
そして、恨みや憎しみのようなものを感じ取れない、さらりと自然に、迷いなくつけられたように見えるそれに、神木も村上も息を呑むことしか出来ずにいた。
「脅したら、やられたのか」
古寺は微かに首を縦に振ると、腹の、傷の辺りをゆっくりと撫ぜた。
そして一つ一つ思い出すように、
「俺を切りつけたときの龍之介の瞳は一生忘れないかも知れないす。足元で暴れる俺を見ながら、少し驚いた顔して、それから血を見て、持ってるナイフを見て。それで俺の裂けた腹とナイフを見比べて、何かから醒めた瞳になった」
神木は心臓が跳ねたのを感じて、咄嗟に口元を手で覆った。
そして治まらない拍動に沿うように、頭の中でぶつ切りにされた過去の映像が音を立てて映し出されていくのを見た。
フラッシュを浴びたときのように、強烈なイメージだけが神木の脳髄を震わせる。
「――っす」の語尾の多用は、文章にすると少しイラッときますね。思わぬところで勉強になりました。
WEB拍手
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。