第八章 疑念 八
神木が声に出さず、だが「どうした」と先を促すように古寺を見返す。
村上はふと、先程一瞬強張った古寺の表情を思い出した。
「なにか言い忘れたことでも?」
「龍之介のことだ」
村上の問いに古寺は少々顔を歪ませながらハッキリと発音した。
神木はピクリと肩を揺らしたが悠揚迫らず、再び茶色くくたびれた皮コートを霧雨の下に晒して、古寺のために後部座席への扉を開けた。
「お前は龍之介と面識があるのか」
「なあ、それより刑事さん、何で来たんすか。龍之介が何かしたとか」
不貞腐れたような格好で深くシートに座り込んだ古寺は、神木の問いを無視して言った。
上目遣いで、フロントミラーに映った神木の目に視線を合わせてくる古寺に、完全に自分に関心が外れて余裕が生まれたのか、と神木は思った。
「いや。お前には関係のないことだ」
神木が言い終えると、古寺は小さく舌打ちした。
村上は古寺の表情に苛立ちが浮かんでいるのをミラー越しに見た。
「何か、あなたにとってマズイことでもあるの? 龍之介くんとの間に」
村上が今度はミラー越しにではなく、ハンドルに手を掛けたまま、後部座席を振り返る。
途端に古寺は先程までの余裕を失い、落ち着きなく目玉を動かし始めた。
村上は古寺から漂うチンピラ風情に脱力し、ため息をつきそうになったが、神木にそれを制止され、仕方なく体勢を戻すだけに留めた。
「何か隠していることがあるのか」
神木の静かな問い詰めに、まだ覚悟がつかないのか、古寺は右足を揺すりながら変わらず目玉をギョロギョロさせている。
「黙っていてもいずれはバレるのよ」
古寺の揺れる右足がぶつかるたびに、同じく揺らされる運転席のシートに座っていた村上が苛立った声をぶつける。
だが、肩に神木の手が置かれて再び制止されると、腕を組み直してミラーの中の古寺に目を向けた。
「古寺。じゃあ、署で話を聞こうか」
それが決め手か、古寺は助手席のシートに噛み付くように身体を起こすと一言、「話す」とだけ言った。
「さっき逃げようとしたのも、これから話すことに関係があるのか」
「少し」
古寺は曖昧に首を傾けるとぼそりと言い、
「小枝子には知られたくないんだ。今も、世話になった人だから挨拶してくると言って出てきた」
「急いでいるのか」
古寺は、今度はそれと分かるように肯定の意を持って大きく頷いた。
「小枝子が離婚していたことは本当に知らずに来たんすか」
「ああ、本当に知らなかった」
「俺がどう頼んでも、何で来たのか、教えてはもらえないんすね」
神木は返事をする代わりに、ミラーの端に映っている古寺の切れ長のさっぱりとした瞳を睨むように見た。
その剣呑な様子に観念したといった様子で古寺は続けた。
「小枝子と元旦那の修造が別れたのは一昨年の冬、それまで別居状態だったんすが、修造の会社が潰れたのをきっかけにして小枝子が離縁状を突き付けたんだ、弁護士を通して」
「お前はその頃から奥さんと一緒にいたのか」
「はあ。修造と小枝子が別居し始めたあたりから、頻繁にここへは来ていたんす。まだ中学生のガキだった龍之介と顔を合わせたのもその頃からだった」
「それはいつ頃だ」
「離婚が決まる半年くらい前から」
これは本当のことだろう、と神木は思った。
それでどこかで小枝子に取り入ったのだろうが、そんなことは聞きたくもなかった。
「それで何で逃げようとした」
鷹揚に構えた神木とは対照的に、古寺はスモークウィンドウから向井家の方を何度か見やると
「修造からは、離婚が決まってから定期的に送金があったんすよ」
神木と村上は一瞬目を合わせると、同時にミラー越しに古寺を見た。
古寺は逆に視線を落とすと、骨ばった浅黒い手を擦り合わせるように動かしながら、少々言いづらそうに
「七百万の慰謝料を分割で、毎月三十五万ずつきっかり振り込まれることになっていた」
「そんなに?」
村上は驚きを隠しきれない、といった様子で声を上げた。
「だって向井氏は職を失ったのよ」
「あの野郎も浮気してたってことですよ。それを小枝子は興信所を使って証拠として弁護士に渡した、抜かりなく」
「お前が見つかるよりも先に、か」
「その通りっす。俺は間一髪で免れた。たぶん俺の存在も知っていたはずですよ、あの男は。でも旦那は後ろめたさがあったんでしょうよ。その条件をすんなりと呑んだ」
追従笑いにも似た下卑た薄笑いを浮かべながら重ねる。
「そうして振り込まれてくる三十五万は、その三分の一を龍之介に充てる、という意味も含まれていた」
「息子に? 養育費ということか」
「いや、表向きはそうだが本当のところは違う。“生活費”なんすよ。あいつは他に家を持っている。小枝子の名義でね」
「何?」
古寺が出来るだけ相手を刺激させないように静かに、だが厳しさを含んだ声で言った。
「もうこちらには帰って来ませんよ、奴は。そうでなければ俺はここにはいない」
「じゃあ、龍之介は一人暮らしをしているということか」
「そういうことになるんじゃないすかね。修造がまだ景気の良かった頃に小枝子に贈った部屋のようすよ。滅多にこちらに帰ってくることはなくなった。もうずっと入り浸ってますよ」
この先ちょっと会話が続くので、変なところで切ってしまいました。ごめんなさい。
もう少し8章が続いてしまいそうですが、お付き合いくださると嬉しいです。
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