第八章 疑念 七
女は胸の前で組んだ両手を硬くして、数回庭に面した窓の方へ視線を投げた。
神木も村上もそれを見逃さなかった。
実態は分からないが何かあると踏んだ神木は、女を再び強く見ると、今度は玄関の方へ視線を走らせた。
しばらくして、女はその迫力に観念したという風に門扉から玄関に通じた通路をゆっくりと戻りだした。
そして玄関まで行くと、彼らのほうへ向き直り、扉を数センチだけ開けて中へと促す。
それを確認した神木と村上は滑り込むような勢いで扉へ近づくと、完全に開けられるのを待って少々強引に入った。
目の前の視界から一気に明度が落ち、神木は一瞬眩暈のような感覚に襲われた。
そんな折、彼らの耳にまず飛び込んできたのは、廊下を走る音と、激しい衣擦れの音だった。
「待ちなさい、警察です」
村上は声を上げると、神木の脇をすり抜けて、その動く対象物に向かっていった。
神木がすぐさま、手探りで玄関に備え付けられた電気のスイッチを入れると、直後に村上に腕を掴まれた男の顔を見た。
「お前は……」
神木はつい口から漏れ出たという風に呟くと、男の顔を見据えたまま動かなくなった。
その筋肉の隆起している腕はそれに似合わず、村上の細くも太くもない腕に大人しく押さえつけられている。
「知ってるんですか」
何事か考えたまま突っ立っている神木に、掴んでいる腕に抵抗の色が消えたのを感じた村上がそう問うた。同時に神木が口を開く。
「お前、前もち(前科者)か」
神木の言葉に男は顔を背けて黙っている。
村上は男が少し震えているのを感じて、覗き込むように男を見た。
「古寺だろう、お前」
尚も詰め寄る神木に、男はようやく脱力して頷いた。
村上は困惑した表情のまま神木にその男を託すと、玄関前で座り込んでしまった女を立たせた。
「何でここに」
「おれ、何にもやってねえよ。信じてくれよ、刑事さん。おれ、もうそういうことから足は洗ったんすよ」
神木の言葉を遮って、男が突然低く、沈んだ声で訴えだした。
裏口から逃げようとしていたのだろう、小脇に抱えていた黒い旅行カバンからは衣服が飛び出し、靴は廊下に乱雑に転がっていた。
「神木さん、何やったんですか、この男は」
「いや、なに。窃盗だよ」
女を支えながら、怪訝そうにいった村上に対してサラリといってのけた神木は、そのまま男に向かって
「お前、そうとうおまわりが嫌いになったようだな」
神木の言葉に、古寺と呼ばれた男が再び肩を揺らして青ざめた顔をした。
古寺と神木を交互に見た村上は、やはり訝しげに首を捻らせている。
「こいつ、あの黒石さんに取り調べられてんだよ。俺も少し手伝ったから知ってるだけだ。窃盗で現逮(現行犯逮捕)、二年、務所(刑務所)に入ってた」
黒石、という名を聞いた村上は、全ての納得がいったように大きく頷いて苦笑を浮かばせた。
黒石とは北上署の刑事課盗犯係で最も恐れられている刑事だった。
公に漏れれば問題になるような取調べを平気でする黒石に、この古寺という男は運悪く糺されたという訳だ。
「こいつは元、マル走(暴走族)なんだよ。それで今、こいつのマル走時代の頭は木下組の若衆だ。だが、幾ら下っ端といえども組の一員だからな」
神木はそこまでいうと掴んでいた男の腕を離し、服に出来てしまった皺を伸ばすように撫でながら続けた。
「おい、頼むから厄介ごとは増やさんでくれよ。
でもなあ、その慌て様。まさかもう何かやったんじゃあるまいな」
男は数回怯えたように首を横に振ると、勘弁してください、と情けない声で言った。
これは何か身に覚えがあるのではなく、本当に「警察」に異常反応を示すようになってしまった身体が勝手に動いただけのことだろう、と村上は思っていた。
「ほんとうに? 黒石さん、呼べばすぐ来るよ」
だが、村上が意地悪く畳み掛けると、男は女を指差して
「今はこいつと幸せに暮らすことしか考えてねえんす。黒石さんにお世話になって、俺本当に足洗ったんす。純さんともあれ以来連絡取ってません。信じてください。お願いす」
男が深々と頭を下げる傍らで、神木は女を見た。
女は眉毛を八の字にして男を心配そうに見つめている。
神木はその様子から、ほとんど女が盲目的に古寺を愛しているのかもしれない、と思った。
「神木さん、純って誰ですか」
特に逃げるでもなく着衣の乱れを直している男を見ながら、村上が言った。
「純、とはさっき話したこいつのマル走時代の頭だ。窃盗で捕まったときも、この純って男に走らされていたらしくてな。手ぶらで帰るわけにもいかず盗ったってわけだ」
「何をです」
「高級自動車」
不憫な奴だ、とでもいうように苦笑すると、村上は男から目を逸らし、支えていた女から手を離した。
その一瞬を見計らっていたかのように、女が突然村上を通り越して古寺の脇へしがみついた。
キツイ香水の臭いが神木の鼻を衝き、思わず咽そうになるのを何とか堪える。
そして目の前で女が古寺を心配そうに見つめているのを、ただ見た。
だが、神木は村上と目を合わせると、小さく咳払いをして、
「向井さん、何故古寺がここにいるんです?」
女は未だ古寺の掴まれていた方の腕を優しく撫で回すように擦りながら、一瞬神木を睨んだが、すぐに視線を落としてため息をついた。
「あの人……向井とは、別れたんです。もう関係ありません、だからです」
「旦那さんとは離婚された、ということですか」
女は顔を少し赤くさせながら、苛立ちを内に秘めた様子で頷いた。
「でも、苗字が」
村上の問いに、女は続いて男の背の辺りを擦りながら
「息子のために変えませんでした。この家も、環境を変えたくなかったので貰ったんです。お願いですから、この人の前であの人の話はやめていただけませんか」
「俺たちは見た通りの関係だよ。もういいだろ? 刑事さん、それより何で来たんだよ」
古寺が調子を取り戻したのか、勢いづいて割って入ってきた。
恫喝するときのような大きな声だった。
そして今度は反対に古寺が女の肩のあたりを擦っている。
「見た通りの関係とは、恋仲ということか」
神木の問いに、一瞬逡巡した古寺に少しだけ悲しそうな眼をすると、女は代わりに声を張り上げた。
「そうです! 言わずとも分かりますでしょう。何なんですか、本当に」
「不躾なことを聞いて申し訳ありませんでした。古寺とは一度面識もあったものですから気になりましてね。
今日は、実は、息子さんの龍之介君にお話を伺いたくて寄らせてもらったのです。いつ頃帰られるか、お分かりになりませんでしょうかね」
「龍ちゃんに、一体何を聞きたいんですか」
「いやね、北高付近で出た引ったくり犯を龍之介くんなら見ているかもしれない、という話があがりましてね。捜査に協力していただければ、と思いまして」
神木は本当のことは言わずに、女の表情から目を離さずにさらさらと嘘を言ってのけた。
「一体誰がそんなこと言ってるんですか」
「誰、と申されましても、申し訳ありませんが、それをお答えすることは出来ないんです。すみません」
女がパーマの強くかかった、肩より少し長い髪を振り乱し、食って掛かったのを村上が一蹴する。
そこに再び神木の声が重なった。
「今日は学校も休校だとお聞きしました。龍之介くん、どちらに行くとか、何かお母さんに言付けしていかれませんでしたか」
「いえ、何も」
「そうですか。じゃあ、今日のところは失礼して、また時間を改めてお伺いさせていただくことになると思います」
神木と村上が脱ぎ散らかしたままだった靴を履こうと踵を返した直後、古寺の肩にもたれた女が口元で口惜しそうに呟いた。
「今日は、久しぶりに龍ちゃんのお友達が来てくれて、いい気分だったのに。最低だわ」
神木の蛇のような視線から外れたことが気を大きくさせたのか、舌打ちまでもついてきた。だが、神木と村上はすぐに足を止め、再び女の方を振り返ると、「何よ」と慌てふためく女を余所に
「誰が来たんです? そのお友達の名前、教えてもらえませんか」
いやに冷静な、金属のような声が冷たい廊下に響き渡った。
男の表情が一瞬硬くなったのを村上は目の端に捉えた。
女は一瞬古寺を見上げたが、視線は合わず、俯いて吐き捨てるように
「知らないわ。初めて見たもの。あの子、名前も言わなかったし」
そこまで言うと女は「もういいでしょ」と付け加えて、長い廊下の先にある部屋に入っていってしまった。
神木は首の後ろを掻きながら、軽くため息をつくと村上の肩を一度叩き、ゆっくりと靴を履いて玄関の扉を開けた。
村上はしばらく立ち尽くしたままの古寺を見ていたが、女まで聞こえるか聞こえないかほどの微弱な声量で謝辞を述べると神木の後を追った。
神木は既に車のドアの前にもたれかかって待っていた。
村上はポケットを弄り、車の鍵が手のひらに当たると少し迷って、小走りで車に向かった。
今度は丁寧に手動で車の鍵を開ける。
まるでスイッチを切り替えたときのような音がカタリと濡れた住宅街を震わせて、異様な緊張もそれと一緒に解かれたような感覚を村上は覚えた。
やはり寒さに身を縮めていた神木が、その中に滑り込もうと身体を屈ませる。
そのとき、背後の門扉が、静かな霧雨の中には似合わない、切り裂くような音を立てて開けられるのが彼らの耳に届いた。
「ちょっと待ってくれ」
村上が運転席に乗り込もうとしていた顔を上げ、声の先を見る。
そこには白い長袖のTシャツを纏っただけの古寺がいた。
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