第八章 疑念 六
一件の聞き込みを終えた時、ちょうど時計は十時半を指していた。
彼らの向かった先は古びたカフェバーで、被害者の自宅からは歩いて二十分ほどの距離に位置していた。
カフェバーの主人は被害者の中学時の旧友ということで、年に数回斉藤が一人でふらりと飲みにやってくる、というだけの間柄だった。
伺う前から当たりの感触を微塵も感じなかった二人は、やはり無関係だった、といった結果に既に徒労感を覚えていた。
だが、結局は割り振られた区域を一軒一軒しらみつぶしに当たって回るという地取り捜査で消していくしか方法はないのだから仕方ない。
肩を落としまま、車内には沈黙が続いていた。
次は再び被害者の自宅付近、そして現場付近の聞き込みに戻ろうと村上が車を飛ばしているとき、タイミングよく神木の携帯が震えた。
「そっちはどうだ」
三谷の焦った声が神木の鼓膜を突く。
神木は電話を耳から少し離しながら、無駄足だったことを告げた。
だが、三谷は初めからその返答には何の期待もなかった様子で、語尾がかぶる勢いで続けた。
「今、どの辺走ってんだ」
「あと五分くらいで現場付近に着きそうですね。道も空いてますし」
「じゃあ、お前たちが一番近くにいるな」
三谷の言葉にどういうことだ、と黙ったまま返答を待つ。
「さっきだな。朝の、あの電話のウラが取れた。これから俺のいう場所に向かってくれ」
突然緊張した表情で乱暴にメモを取り出す神木を、村上も怪訝な様子で何度か見る。
そのうち電話が終わって、先に口を開いたのは神木だった。
「俺のいう住所に向かってくれ、いいか」
「ちょっと待って。どういうことです?」
「朝の電話のウラが取れたらしい。斉藤が悩んでいたという生徒に会えるかも知れん。とりあえず俺たちがその一つの、一番近くにいるようだ。他にも捜査員が他の場所に向かったらしい」
村上はまだ混乱を抑えられない様子で、神木のいう住所に進路を変更した。
カフェバーに聴取しに行ったときとは明らかに違う、尖った空気の層が一瞬で車内に出来上がっていた。
そしてそれを破るように、神木が重たい声で殴り書きしたばかりのメモを読みあげ始めた。
「向井龍之介、十七歳。家族構成は専業主婦の母親、小枝子に、一昨年の冬頃話題になった大手通信会社STソリューションズの社長、向井修造を父親に持つ長男。一人息子」
「ああ、個人情報の漏洩がバレた会社ですね。確か、内部で顧客リストを流していた社員が逮捕されて、社長が辞任に追い込まれたという……」
神木が頷く。
「今じゃ、それで株価も急落。合併なんて話も出てましたけど、ライバル社に乗っ取られる形になりましたよね」
気の毒なこった、と神木が呟き、村上は続けた。
「その息子の、龍之介、とやらが斉藤を悩ませていたと?」
「いや、まだ決定ではないらしい。学校で名前の出た何人かの家に、他の捜査員も行っているようだ」
神木は再び腕を組んだまま、静かな低音で言った。
村上は煮え切らない様子で短い前髪を捩るように弄りながら、
「うーん。龍之介……一人息子、向井、龍之介。何か引っかかりませんか」
ハンドルを人差し指で一定に叩きながら、ぶつぶつと繰り返している。
だが、神木はそれを横目で見ながら「この辺だ」とだけ告げた。
村上は唸りながらハンドルを両手で握り直し、現場に案外近い住宅地の方へ車を急がせる。
遠心力に身体を委ねながら、神木はどこに刺さっているか分からない棘の発するような違和感が自分自身の気を削いでいるのに苛立っていた。
この界隈じゃ一際目立つ、大きな家の前に車を止めた。
村上はエンジンを切ると、車内からその大きさを改めて窺うように下から覗きあげた。
神木は先に車外へ出ると、握ったままでいたメモを乱暴にポケットへ押し込めた。
軽くインターホンを鳴らす。
霧雨に混じって鳴るそれは、じんわりと重たく、消えずに地面に落ちていった。
数秒の沈黙の後、ガサガサと割れた音と共に甲高い女の声が飛び込んできた。
「北上署の者なんですが、今、ちょっと宜しいでしょうか」
神木は身を屈めると、その風貌からは想像し難い、人当たりの良さそうな声で言った。
インターホンの向こうで揺れる息が、俄かに動揺の色を濃くしていて神木と村上は目を合わせた。
「ちょっと待ってください」
女は隠しきれない狼狽を甘えた声に重ねると、乱暴に語尾を切った。
そして、神木が一度俯き、再び顔を上げる間に二十メートル以上も向こうにある玄関の扉が開いた。
申し訳程度に開いたそれから女が顔を覗かせていて、二人を上目遣いで見ながら頭を下げた。神木と村上もそれに続いて会釈を返すと、近づいて来る女が門を開けるのを待って警察手帳を提示した。
「北上署刑事課の神木と、こっちは村上です。向井小枝子さんですか?」
女が小さく頷くのを見て神木は続けた。
「少々お話を伺いたいことがございまして、こうして寄らせていただいたんですが、宜しいでしょうか」
神木が一気にまくし立てると、女は尚も怯えた様子でゆっくりと首を縦に振った。
神木はそれを見ながら、ふと女の化粧が浮いているように感じた。
まるで急いで口紅だけを引き直してきたような、そんな風に見えたのだった。
よくよく見てみれば羽織っているカーディガンの下は寝巻きにも見えなくない。
「数分、お時間頂くくらいですので」
神木は女の着衣の乱れや、「刑事」に異常な反応を見せるそれに何か嫌な予感を覚え、そう付け加えた。
それを神木の背中越しに聞いていた村上は、何か自分の視界に映る空気の濃さのようなものが変わったような感覚を覚えて一度神木を見遣った。
女が「はあ」とか「まあ」とか煮え切らない様子を続けているのを辛抱強く待つ神木の傍らで、村上はようやくその原因を見つけたようだった。
「奥さん。ご家族の方は今日ご在宅なのですか?」
村上は女を見据えながら言った。
女はその問いにひどく身体をビクつかせると、曖昧に返事を返した。
とりあえず女が落ち着いてから話を切り出そうと思っていた神木は驚いて村上を振り返ったが、村上はその視線にも動じない様子で真っ直ぐ女を見たままだ。
そしてすぐに畳み掛けるように続けた。
「息子さんの龍之介くんも?」
女がやはり迷った様子で、だが今度はそれと分かるように頷く。
神木はその答えに少し落胆を覚えたが、村上が再び言葉を発しようとしたのを見て言葉を呑んだ。
「では、他に誰かいらっしゃるのでしょうか」
村上の重たい声が霧雨の強くなった住宅街に不自然に散らばった。
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