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  Flow 作者:森カラ
第八章 疑念 五
 斉藤義彦を怒らせた人間がいる。
あんなに怒った彼を見たのは最初で最後だ。

 それが電話で伝えられた内容だった。
神木と村上はそれを聞いた時、斉藤の勤め先である北高の教員から聞いていた話を思い出した。

 斉藤は数ヶ月前に生徒との接し方について悩んでいたという。
その時はそれ自体が教鞭を執る者にとって特に目立った悩みとは思わず、それを話してくれた、斉藤とは席が隣だという教員の「自分も今現在、全く同じことを悩んでいるので目立ったことではないと思う」といった意見に両名同意していた。

実際斉藤は、「誰に」困っているということを話していたわけでもなかったらしい。
神木も村上もその時はそれに対して、それ以上追及することはなかった。

だが、ここにきてそんな電話があったことを知らされ、匿名を名乗る女性がもし北高の生徒だった場合、斉藤を困らせていた人間というのは他の生徒も知るほどの大きな事実だったということになる。

「電話を掛けてきた匿名の女性、生徒さんじゃないんですかね。北高の」
 会議終了後、村上は神木に耳打ちをしてきた。

「そうだろうな」

 神木はまだ眠気の残る身体を捻ったりしながらそれを聞いた。
そして締りのない神経が、遅れて自分の皮膚に鳥肌を作ったのを見透かされないよう、早々に席を立った。
再び昨日現場で感じたときのような違和感が神木を襲っていた。

 何故こんなに、この一本の電話のことが気になるんだろうか。

 未だ目撃証言はない。
だが、プロファイルされた犯人像は十八歳から三十代前半の男、と幅広く設定された。
だが、それは十五でも十六でもおかしくないということでもある、と神木は思った。

 廊下を歩くと空気が混ぜられて、煙草やコーヒーの混ざった濃い、澱んだ空気が早速肌や髪の表面に張り付くのを感じて神木はうんざりとした。
途切れることのない喧騒と、それぞれの任務に走り回る靴底の鳴る音が四方八方に反響している。
鉛のような頭を少し揺らすと、神木は昨晩の村上の言葉を思い出した。

 ――私はもし、この事件の犯人が子供でも、捕まえられるんでしょうか。

 耳鳴りのように繰り返される台詞に頭痛を覚えながら、神木は村上に目を向けた。
彼女もまた昨夜はあまり寝ていないのか、うっすらと目の下にくまを作っている。

まだ犯人を検挙することに対して揺らぎを感じるのか、若いが、あれほど太く見えた芯が枯れ枝のように頼りない状態で彼女を支えているような気がして、神木はすぐに目を逸らした。

 警察に身を置く、ということは所謂(いわゆる)縦社会に身を置くということに等しい。
外に出れば疎んじられ、勿論犯罪者からは憎まれてもおかしくない立場にある。

加えて、一方で内に入れば意味のない“縦”にしがみつくしかない。
警察とはそうした図式が未だ横行しているところだった。

そこに属し、命を張るということは、いつ切れるとも知れぬ命綱一本で、「登れ」といわれた崖をロッククライミングしているようなものだ。
結局最後には自分しか信じるものがない。

だが今の村上には、今まで神木自身がそう感じてきたように、その自分自身でさえも信じられないのだ。
神木は煙を吐き出すときのように、肺の奥から大きく息を吐いた。

ここで手を差し出しても仕様がない、これからもその意味のない縦社会は続く。
誰からも信頼されるヒーローになど、永遠になれるわけじゃないのだ。
神木は、つい彼女に伸ばしてしまいそうな手や、吐き出してしまいそうな言葉を堪え、ただ背筋を伸ばした。

「神木」
 突然彼らの背後で声がする。署長の三谷だった。

「お前たちは引き続き、聞き込みに当たってくれ」
「分かりました」

 神木は二つ返事で了承した。
本当ならば学校へウラを取りに行きたいところだったが、それは捜一と他の捜査員に充てられていた仕事だった。

「神木、お前、大丈夫なのか。身体、辛かったら今日は帰ってもいいぞ」

 三谷が神木の背中を軽く叩いた。神木の目に三谷の頭が映る。
三谷は神木よりも身長が低いために、並ぶとどうしても神木に頭部を晒すことになる。
神木はその短く刈られた頭に少々白髪が混じっているのを見て、何ともやり切れない気持ちになった。

「大丈夫です。続けさせてください」

 そう言うと、口元に少しだけ笑みを浮かばせた。それを見て、三谷も僅かだが、安心したようだった。

 外は昨晩から発達した低気圧により厚い雲が空を覆っていて、彼らが署を出た辺りから霧雨が降り出してきていた。

「今日は北高、臨時休校のようですね」
「まあ、仕方のない措置だろうな」

 昨日捨て忘れたままの缶コーヒーが未だにホルダーに居座っていて、何となく二人の間をぎこちないものにさせている。
神木はそれからするりと目を逸らすと、霧雨に濡れ始めた窓ガラスに視線を移した。

「身体は大丈夫なのか」
「あまり、心配しないでください。大丈夫ですよ」

 そっぽを向いたままの神木に、村上は笑いながらギアをドライブに入れて車を発進させた。
今日も時間と労力を費やし、付近住民への聞き込みが始まる。

「神木さんの奥さんを殺めた少年は、どういう子だったんですか?」

 突然の奇抜な質問に、神木も背けていた顔を村上に向け、ギョッとした表情で彼女を見つめた。
すると、村上は直線道路の先を見据えながら、混んでいる道路にアクセルを緩めて呟くように続けた。

「ずっと許せなかったんです。自分があの時の全てをただ引き摺ったまま、刑事としてこうして事件を追っていくことを。ひどく、罪深いことなんじゃないかって思っていました」

「まあ、俺もそうだったな」
神木は僅かに苦笑すると、前を見つめたままの村上に語りかけた。
「俺にとって、自分を許す、ということは事件に付随する全てを許すこととほぼ同等だったんだ。自分を許す、即ち自分自身の人生を全うしようとすることは、理恵が死んだことも、理恵を殺した犯人の少年のことも受け入れた上で、自分の人生を歩むことに相違ない。なぜなら、俺の人生にはそれはもう切っても切り離せない事実となっていからだ」

 村上が小さく頷く。

「確かに、一歩進むたび、そいつらは俺の背中や脚に絡み付いてズルズルとついてくる。それに気づかないふりをして毎日を送ることなど出来るはずがなかった。俺が、一歩一歩、自然に歩けるようになるには、その引き摺っているものを抱え上げ、俺の荷物の中にいっしょに仕舞ってあげなきゃならなかった」そこまで言うと、神木は一人納得するように呟いた。「お前も、そうなのだろうな、きっと」

「私自身、仕舞いきったものだと思っていたんです。だから思い出したくもなかったのに。
 すみません。まさか、ここにきて、こんな形で躓くことになろうとは考えてもみないことでした」

「俺が秘密を打ち明けたときは茶化していたのにな」
「だから、秘密って、そんな可愛い言い方しないでくださいよ、恥ずかしい」

 村上は疲れた表情を少しだけ和らげ、微笑んだ。
神木はその横顔に大人びたものを見ると、ホッとする中にもドキリとする瞬間を感じ、僅かに動揺した。
そしてつい「まるで、本当に父親のような気分だ」と声に出して言ってしまいそうになるのを何とか堪えた。

「でも、一方でそうして仕舞ってしまってもいいのか、という不安がありました。そうして引き摺っているものは一生、自分の枷として引き摺って歩かねばならないのではないか、歩き辛くても見えないところに仕舞ってしまってはいけないのでは、と思ったんです。神木さんだって、そうでしょう? 昨日学校への聴取の帰りに神木さんを見ていて思ったんです。きっと神木さんにもそう思った瞬間はあるはずだと」

「お前、あんまり自分の数奇な運命論に自惚れているんじゃないよ」

 村上は突然声音の変わった神木に驚き、ハンドルを握っていた手を反射的に少し硬くした。
だが少々震えながらも、いつもの調子で

「それは神木さんじゃないんですか」

「まあ、俺はそうだったかもしれん。仕舞うことで誤魔化してきたことは、今となっちゃごまんとある」

そこまで言うと、事件によって生まれた憎悪や罪の意識が二十年間外に漏れることなく、己の中で様々に形を変え、縦横無尽に自分を切り裂き続けていた過去を思い返した。

「だがな、もうやめるよ。辛い過去も結局記憶になって、そう簡単には消えてくれそうもない。それに俺が望まなくても、このクソッタレな職に就いている限り、事件は恐ろしいスピードで向こうからやってくる。でも俺はそれを、一つずつ解決していく」

 村上は黙ったまま、静かに運転を続けている。
神木はその空気を感じ取りながら、きっと彼女の中には既に答えは出ているのかもしれない、と思った。

「あれも、少なからず、お前の言葉を借りれば“助け”を求めていたのかもしれないな」

 神木は狭い車内で、まるで青空を仰ぐときのように仰け反ると、笑いを含んだ声でいった。村上はその一言に緊張し、エアコンの風が直接喉に入り込んできた時のように水分が奪われていくのを感じながら、辛うじて相槌を打った。

(かい)(づか)には安心して眠れる場所も、自分の全てを無条件に受け入れてくれる場もなかったかも知れん。だからあいつは、自分自身のために“神”を創ったのかも知れない。
 だが、あいつの思想を理解し、肯定してやることは俺には出来そうにないな。すまん、もういいか」

「すみませんでした。変なことを聞いて」
「本当だ。頼むから、これ以上壊れないでいてくれよ、相棒」

 村上はまだ迷った面持ちで首を捻って苦笑すると、そっくりそのまま返します、とだけいった。

「ゆっくりでもいいんじゃないか、村上。お前はまだ、若い。お前は逃げてきた俺とは違って、もう充分自分と向き合ってるじゃねえか。ゆっくり許せばいいんだよ、時間を掛けて」

 車内に徐々に雨の気配が入り込んでいる、と村上は思った。
空いてきた道路をアクセルを上げて走ると、先程までは気にならなかった霧雨がフロントガラスにバタバタと貼り付いて、途端に前を見辛くさせる。

急いでワイパーを動かすと、その規則的な摩擦音に車内が充満していく。
その中で村上は神木の言葉を反芻し、再び自分に課せられた役目を全うすることを決断したようだった。


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