第八章 疑念 三
神木は村上が自分に憧れとしての理想の父親像を重ねているのかもしれない、と以前から考えていた。
自らもその手に抱くことのなかった娘と彼女を重ねているように。
だからこそこの告白にどう答えるべきなのか、神木には分かりかねた。
「正直、憎んでいるものはあったけれど、その一線を越えるほどのことではなかった。最近の若い子にありがちな“苛々した”っていうのとも違う……強いていえば、不安、だったのかもしれません。
怖かったんです、私、きっと。あれはお守りみたいなものでした」
「鋏がか?」
やはり返答に迷った様子で神木がゆっくりと言った。
視線を合わせた彼らの頭上を、非常に早いスピードで雲が流れていく。
いつの間にか、出ていた月もどこにあるのか見つけるのが困難になっていて、更けた夜の闇が独特の恐怖をそこら中にばら撒いていた。
村上がこの公園には少々背の高すぎる時計を仰ぎ見る。
既に日付も変わり、神木の頬も赤みを増していて、どこか疲れていた。
「おかしいですよね。でも、当時、自分の居場所みたいなものがなくて、学校もやめようと思っていて。そう、まるで子供が人形を抱きしめながら眠るみたいに鋏を握っていたんです」
「学校、嫌いだったのか」
まるで普通の父親みたいな質問に、堪えきれずに噴出した村上は再び歩き出して、
「普通の人よりは嫌いだったと思います。私、いじめられっこだったんですよ。先生もみんな、助けてはくれなかった。情けないことに、自分で乗り越える力を持っていなかったんです。暗い青春時代でした」
神木はどこか浮いた村上の笑い声を聞きながら、心の中で舌打ちをした。
俺はどうしたらいいんだろうか、と疲れの溜まった脳内が無理やりかき混ぜられるように何度となく自問自答を繰り返す。
だが、俺にとって村上は仕事仲間でしかないんだ、そう言い聞かせると行き場のない両腕を再びコートのポケットに突っ込み、ただ彼女の笑い声を傷つけることなく止めることだけを考えた。
「さっきは悪かったな」
「何がです?」
「いや、北上高校で。その、からかって、さ」
俺は中学生か、そんな情けない自分の返答に呆れ返りながら、神木は風で乱れた頭をガリガリと掻き毟った。
「ああ」
村上はやはりおかしそうに笑うと
「気にしてませんよ。それに、一体いつの話だと思ってるんです? 私はもういい大人ですよ、あれは過去の話です」
そういえば、と神木が声を出す。
直後に、「いけないことをした」というように彼の顔の皮膚が歪んだのを見た村上が、怪訝そうに何度か聞き返す。
神木は仕方ない、というように既に伸びてきた顎鬚を雑に何度かなぞると、
「言い辛いんだが。俺のカミサンの事件で逮捕した少年の自室にも、数え切れないほどの鋏があったなあ、と思って」
「そうだったんですか」
「すまん」
途端に神妙な面持ちになった村上に、神木はすぐさま謝った。
重ねて、本当に自分はさっきから何を口走っているのだ、と激しく自分を責めた。
「いえ、構いません。でも、だからかもしれませんね。私がここ十年近く思い出してもいなかったものを思い出すなんて。何か、シンクロしたんでしょう、きっと」
村上はそこまで言うと、少々不自然に言葉を切って、小さく唸るような声を上げると、己の頬を両手で気合を入れるときのように打って続けた。
「それが、さっき運転中に、子供の頃感じた時みたいな、とてつもなく身勝手で敵わない力が襲ってきて、引き摺られていくみたいに恐怖が……ダメですね、私」
村上は神木の言葉を待っているような素振りを見せたが、言葉が返ってくる様子はなかった。
見切りをつけて、何か違う話題を振ろうとするが、我慢が出来ない子供のように彼女は苦しそうに声を上げた。
「何が出来るんでしょう、神木さん。私、とても嫌な予感がするんですよ」
「嫌な予感? どういう意味だ」
「すみません。よく、分からないんです。でも、何だか嫌な予感がするんです」
「何をいっているんだ、今更。殺人事件の担当は今回が初めてではないだろう」
神木は精神的に不安定な狂いを見せた村上にたじろぎながら、言い聞かせるように穏やかに言った。
すると今度は村上の歩みが止まって、何かに慄きながら俯いた彼女を神木が正面から見据えた時、村上が歪んだ顔を上げた。
「だって私とその少年の違いなんて、人を殺したか、殺してないか、ということだけなんですよ!」
大声を上げてしまったことに動揺を見せる村上の両肩を、正面からガッシリと掴むと神木は言った。
「いや、それは大きな違いだ」
「いいえ。小さな違いなんですよ、きっと。
私にはあの時、どうしてあのお守りで誰も傷つけなかったのか、まだ分からないんです。あの時、私は誰かを殺していてもおかしくはない、そんな精神状況だった。いえ、正直、誰かを殺したい、傷つけたいと、きっと思っていました。けれど私は何も犯さなかった」
正面から捕らえられた視線を逸らすことなく、村上もまた神木を見つめ返していたが、語尾と共に力なくその視線を落とすと、まるで何もかもをも諦めてしまったような調子で、
「神木さん、何でなんでしょう。私は、本当は、何もかもを憎んでいたんですよ。けれど、あの時、理性が働いていたとは思えない。私はね、ただの臆病者だっただけなんです。ただ、何か、小さな違いで、私はそれを使わなかった。それだけなんです」
そしてどこか焦点の合っていない目をして、
「私は殺人犯だったかも知れない」
こいつは一体どうしちまったんだ。
神木は思いながら、うな垂れたままの村上を上から見据えた。
言ってやれる言葉は幾らでもある気はしたが、彼女を認めて受け入れてやるよりも先に、神木はつい、妻や自分から一方的に何もかもをも奪った少年のことを思い出し、悔しさを止められなくなった。
「じゃあ、お前は、人を殺すやつには勇気があるとでも言いたいのか」
怒りに震える神木の声が公園内に揺れるのを村上は辛うじて感じ取った。
そして彼がこんな風に動揺したのを初めて見た、と片隅で思った。
そして風の冷たさもどこか感じなくなって、あれだけ動かずにあった自分の信念など、こんなに馬鹿らしく思えるほど脆いものだったのかと嘲り笑う、そんな刹那に、
「そんなことがあって堪るか! そいつらの訳の分からん勇気大会に罪無き人間は殺されなきゃならないのか!」
神木の割れるような怒声が響いた。
数秒して、どこかの家の窓がカラカラと乾いた音を立てて開けられ、この騒音の様子を窺っているのか、村上は緊張した空気の流れを肌に感じた。
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