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  Flow 作者:森カラ
第八章 疑念 二
 神木は今朝、村上の肩を借りながら歩いた道を再びその足で踏みしめていた。
だが、自らが織り成す砂利との摩擦による不協和音も、今は彼の心を静かに通り過ぎていくだけだ。

神木はその存在さえ薄れていた、辞表願いの入った胸ポケットの辺りに意識を集中させると、背筋を伸ばしてこれから「追う」ものを反芻した。
彼の首筋に幾度も北風が滑り込み、だが、神木は身体を丸めることなく腕だけを抱えるように組むと、どうかこの嫌な予感が杞憂であるようにと徐々に雲のかかってきた空にため息を一つ吐いた。

 その後ろで村上は神木の普段よりも大きく見える背中を見ながら、ここを犯人はどういう感情で通り過ぎたのかと考えていた。
見つからない凶器、動機……全ての行動の果てにあるのは結果だけで、初めから意味などないと分かってはいるが……。

村上は被害者の斉藤義彦の見開かれたままの(まなこ)を思い出しながら、時折北風の吹く中でそんなことを思った。
だが、突然胸の奥を跳ねるように鼓動が暴れだすのを感じ、咄嗟に喉元と心臓の辺りを押さえつけた。

村上は身を切るような寒さの中で額に冷や汗をじんわりと滲ませながら、確かに先程から調子が悪かったなあ、とどこか他人事のように記憶をなぞった。
自分の背後でおかしな呼吸音を感じ取った神木は後ろを振り向き、すぐに村上の元に駆け寄った。

「おい、どうした」
「いや、大丈夫です。ただ、少し、動悸が早いだけ」

 村上は立ち止まり、数回大きく呼吸すると、辛うじてその口元に笑みを浮かばせた。

「どこか、悪いのか?」

 いつもはつりあがっている神木の眉が弱弱しく八の字に下がっているのを見て、村上は苦しそうに笑った。

「何がおかしいんだ」

「だって、今朝の神木さんと同じ場所で、心配されるなんて」
村上は左手首に右手を当て脈を取ると、
「ただの不整脈です。疲れが溜まると少し……でも、心臓のしゃっくりみたいなものですから。もう大丈夫ですよ」

 神木はまだ少し強張ったままの村上の肩を支えると、小さく苦笑した。
これでは本当に今朝の逆だ。
そう思いながら、どろどろとしたオレンジ色の光の下、ゆっくりと現場に近づいていく。

「今まで、そんな発作なかっただろうが。病院には行ったのか? 健康診断では引っかからなかったのかよ」

 矢継ぎ早の質問に村上は少し怪訝そうな表情で
「珍しい。心配ですか?」

 だが、急に訪れた沈黙の重さに、村上は「しまった」というような顔をして小さく謝った

「本当にここ最近なんです。医者には掛かりましたけど薬物治療の必要もない、といわれましたから。ただこうなると、めまいが酷いくらいで」

「じゃあ」
神木は支える手に力を加えながら続けた。
「この事件が片付いたら少し休めばいい。有給は一度も使ったことがなかっただろう」

 村上はそれには言葉で答えずに、微笑だけで返した。
だが、神木の前で無邪気に安心してしまう心を抑えつけることは出来なかった。
冷たい空気と対照的に、支えられた右肩に感じるほんのりとした温もりが彼女の弱った意志を溶かし始めた。

「私、実は、十六歳のときに一度補導されたことがあるんです」

 村上は歩みを止めずに、だが、不安定な声でそう言った。
神木は彼女の肩に触れている右手を一瞬ビクつかせ、息を詰まらせると

「お前、補導暦があるのか」

「はい」
村上はジャケットの前を苦しそうに荒っぽく掴むと、真っ直ぐに現場の方向を見据えて続けた。
「夜間に一人で自転車でウロウロしているところを、地元の、警ら中の警官に捕まったんです」

「よく警官になれたな」

 神木は平静を崩さないように、わざと卑しく笑うと村上の出方を待った。
村上はその白い頬にぼんやりとオレンジ色の影を乗せながら、苦笑して言った。

「ええ。当時は、父のところにいたので」

 神木はその意味が全く分からない、といった様子で覗き込むように彼女を見たが、逆に驚いたように自分を凝視している瞳とぶつかって息を呑んだ。

「知らないんですか?」
「知らねえよ」

 まだ神木の方を見たまま怪訝な顔つきでため息をつくと、村上は意を決した様子で話し出した。

「私の父親、公安部出身の政治家なんです。今は母方の姓を名乗っているし、親子の縁も切れているし、私をあの人の子供だということを知っているのは限られた人数でしかいませんが」
「まさか、宇佐見(うさみ)(りょう)()の娘、なのか? お前」

 馴染んできた北風の冷たさが突然尖ったような感覚に、神木は腹の下に力を入れた。
冷えて、既に感覚を失いつつあった肌が急に張り詰めるのを静かに感じる。

確かにそれに似た何かを聞いたことがあったような気がしたが、確信は持てなかった。
随分昔の記憶は全て自分だけの悲愴に(まみ)れていて、他の全ては曖昧になっていたのだった。

「何だ、やっぱり知っているんじゃないですか。そうです、私は宇佐見の娘でした」
「でも、確か宇佐見は……」

「ええ」
村上はそう言うと、己の右肩にあった神木の手をやんわりと外し、笑みを含んだ声で
「死にました。バカな話です。当選後、半年も経たないうちにくも膜下出血でポックリと。悪い奴ほどよく眠るっていいますけど、本当の意味で眠ってますよ、今は」

 村上は緊張して固まっていた身体を、両手を頭上に上げることで伸ばしたがガードの甘くなった隙間に冷気が入り込んだのか、咄嗟に肩を窄め、両腕で身体を巻き込むように抱き締めた。

「じゃあ、その補導暦はオヤジさんが揉み消したってのか?」
「いえ、揉み消したのはほんの一部だけです。まあ、揉み消した事実は変わりませんが」
「いやあ、だって、それで」

 神木は役目のなくなった右手を軽く握ったり開いたりしながら、首を捻って思案に暮れた顔をした。
だが、村上はそんな神木の様子を身体半分だけで振り返って見て、口籠った神木の代わりに先を続けた。

「それでよく合格したって? 神木さん、警察には案外、補導暦を持っていても受かる人はいるもんなんですよ」

 そういうものか、と何度か頷くことでそれに答えた神木は、少し迷った様子で

「いいたくなかったらいいが……一体何を揉み消したんだ? 自転車でウロウロなんて大したことじゃないだろう」
「私、その時、布きり鋏を持っていたんです。私の手には余るほどの、大きな鋏を握り締めて自転車に乗っていました。それがどこにも載っていない記録」

「また、何で」
「何ででしょう。よく分からないんです、今考えても」

 どういうことだ、という顔をして黙って眉根を寄せた神木を見て、村上はまた心臓が高鳴っていくのを感じたが、まだ微かに残っている右肩の温もりと自分の周りに漂う染み込んだ煙草の匂いに再び落ち着いた安心感を覚え、重い口を開いた。

「別に誰かを殺したかったとか、傷つけたかったとか、そういう訳でもないんです。勿論、何かを切りたかったわけでもありません」
「笑えねえよ」

 困惑した顔で地面に視線を落とし、とうとう歩みを止めた神木を見て村上は少女のように笑った。
それはまるで娘が父親にするような気を許した笑みだった。



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