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  Flow 作者:森カラ
第八章 疑念 一
 一月十日、火曜日。午後十一時。
 神木と村上は北上高校での聞き込みを終え、一旦署に戻り、その後付近の聞き込みから電話応対に加えて本店の食事接待準備などをしている間に一日の終わりを迎えようとしていた。
外は既に夜が更け、だが夕方から晴れ間は保たれており、深い藍色の空には転々と星が光っていた。

「難航するんでしょうか」

 ひと時の休憩を取る神木の後ろから村上が弱弱しい声を出した。
神木はといえばこれから食べようとしていたカップラーメンの液体スープを入れるのに必死だ。
村上はそれを気にしない様子で手の上で車のキーをジャリジャリと弄りながら、自分が座っている回転椅子を気だるそうに回している。

 正直神木は動物の死骸が数箇所で見つかっていると聞いた時点からどこか嫌な予感を捨てきれず、且つ偶然とはいえ、事件現場にあったサザンカの花によって抉られた古傷が疼いているのを無視できずにいた。

 校長室で数名の教員から得た斉藤義彦本人の交友関係などを細かく検証してみても、明らかに社交的な人物ではなく、質素な生活を送っていた人物像が垣間見えた。
そこからは事件の発端となり得るような人間関係の縺れや、原因のようなものを探し出すのは困難といえた。

だが、神木はただの通り魔でもただの人間関係でのトラブルでもない、何か水の中を漂う実態の分からないもののように、目には見えないおぞましい展開が足元で蠢いているような感覚に縛られていた。

「明日の朝一の会議で何か進展があればいいですね」

 村上は一通りの事務作業を終えると、机上に置かれたままになっていたコーヒーを口に含み、(つか)えていたものを流し込むような顔で一気に飲み干した。
神木は小さく相槌を打つと、腹のあたりを乱暴に撫ぜまわし、まるで何かを吹き飛ばすかのように大きくため息をついた。

そして割り箸でよくスープをかき混ぜると、手元に準備しておいた瓶入りの豆板醤を箸で出来る限りすくい、スープの中に落とし入れた。
途端に限りなく透明に近い薄茶色だった塩スープが真っ赤に染まり、村上はその奇行を、椅子の回転を止めてスープと神木の顔を見比べたりしながら見ている。

「これが美味いんだよ。これの為に残業しているといっても過言ではないね」
「今後は私がいない時にやってください、といいませんでしたっけ」
「知らねえな」

 神木が啜るたびに顔を歪ませては口元を押さえ、窓際に移動し、外に視線を移した。

「これから、どうするんです?」
「どうするって? 与えられた仕事をこなすまで、だろう」

 村上は窓ガラスに映った神木の顔を見ながらその答えを聞いた。
ここからでは彼が何を考えているのか分からない、と目線を街灯に移したが「正面から見ても分からないか」と頭の中で(ひと)()ちた。

「なあ。これを食い終わったら、少し行きたいところがあるんだが、車出してくれないか」

 村上が慎重にため息を吐いている途中に、突然神木は麺を啜るのを止めてゆっくりと重たい声で言った。
村上は一瞬神木の疲弊した背中に視線を流し、憂慮の面持ちを見せたが、すぐにいつもの横柄な調子に戻して

「いいですけど。辛さで頭の螺子が外れてしまったわけではないですよね」

 神木はその突拍子もないふざけた返答に眉根を寄せて答える。

「いやあ、だって。その目の下に出来たクマは只事ではなさそうですよ? ご老体」と村上。
「そんなにこのスープが飲みたいんだな」

 村上は目の前に差し出された真っ赤なスープに目が沁みたのか、激しく瞼を瞬かせると慌てて謝った。
神木の麺を啜る音が課の中に響き渡っていて、村上はその不規則な音を聞きながらざわめく胸を落ち着けようとしていた。

まるで足が地に着いていない感覚は、全てを予感に変えて実態を伴わない。
ただ目の前をふわふわと浮遊しているだけで、まるで鏡の国に迷い込んだ時に似た出口のない不安が村上の鼓動を高鳴らせていた。
 

 外に出ると流石に凍てつくような寒さが舞い散っていた。
エンジンは冷えてなかなか掛からず、二人はちっとも温まらない車の中で震えていた。

「北公園でいいんですよね」

 村上はエアコンの通風孔に手をかざしながら、肩を窄めて聞いた。
早く車内を暖めようとファンを最大にしているからか、大袈裟な稼動音のせいで村上の声はいつもよりも大きい。
神木は確かに疲労と眠気の溜まってきた身体を縮ませながら、面倒臭そうな声で

「頼む」
「いつものことですからね」

 村上はギアをバックに入れて後方を確認しながら、どこか気の抜けたような声で笑った。
のそのそとシートベルトを付けながら神木は小さく舌打ちすると、暖を求めて深く座り直した。

 事件現場に何度も足を運ぶのは神木の癖だった。
妻の理恵が襲われた場所へ幾度となく赴くことが、いつしか彼の職務としての捜査の一環へと変貌を遂げていた。

ただの夫としてその地に赴くことで併発される感情から自己を保護した結果だったが、実際に漂う犯人の殺意の残り香と対面を続けることは事件を知る上での大きな一つの手段ともいえた。
実際に神木は己の妻が殺害された現場――加害少年、(かい)(づか)(たける)の自室だが――へ赴くことで、少年の孤独の深淵を見た。

(まと)わりつく死臭と(おびただ)しい血の痕、澱んだ壁に染み込んだ陰鬱で()えた臭気や、まるでそれが単体で生きているかのように蠢いている実態のない憎悪や慟哭の中に、少年の中に棲んでいた悪魔との葛藤の記録を感じ取ったことで、刑事としての神木の胸を少なからず打ったこともあった。

それは神木に、自らを「ただの被害者」であることを許さなくさせたが、あの時何度もあの部屋に足を踏み入れたことは刑事職に就いている神木にとっては大きな経験となっていた。
確かにそれに付随する数多の記憶と悔恨の念は消えることなく神木を苦しめるが、犯罪の中に溶け入る感情の渦の末端を掴んだ、という感覚は皮肉なことに彼に驚くべき観察眼を養わせていた。

 車が北公園の入り口付近に止まると、二人は何も言葉を交わすことなく車を降りた。
彼らの、ドアパネルを閉める音が重なって暗い夜道に響いた途端、何羽かの鳥が羽ばたいた音がして、お互い顔を見合わせると腹を硬くした。

時折強い風が吹いて枝が葉を鳴らす音以外、もう何の音も聞こえない。
遠くで微かに生活排水の流れるような用水路がざらざらと音を立てて流れているが、まだ公園の入り口付近にいる彼らまではその認識が固まるほどには届かない。

神木は再び砂利を踏みしめながら、公園内へと歩を進めていった。
村上は少し苦悶の表情を見せたが、流れの速い雲を一瞬仰ぎ見るとすぐに神木の後を追った。




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