7月14日:何をトチ狂ったのか、男が事件を起こしたのは「一月十日」でした。修正しました。
第二章 闇の中で息をする男 一
一月十日、火曜日、午前四時二十九分。
男はまるで闇の中を蠢く蟲のように夜の中に溶け込んでいた。
男の呼吸は周囲に緊張感を与え、ゆっくりと日常を黒く染めてゆく。
足取りには迷いが感じられるが、それが不安から来るものなのか、それとも高揚する気持ちにもっと浸っていたいという表れからなのかは分からない。
ただ時折どこかで音が鳴るたびに男は歩みを止めた。
そして目的の場所が近づくたびにポケットに入れられたままの左手を何度も強く握った。
その度に革の手袋が不自然にギリギリと鳴る。
冷やされた夜風が自らの皮膚にぶつかる度に、男の目の奥はズンと熱くなり、それに呼応するかのように鼓動も早くなった。
同日午前四時三十分、ちょうど。
男の足はある公園の前でピタリと止まった。
公園の入り口の街灯は切れ掛かっていて、時折ジジッと耳を突く音を発しては視界をサイケデリックなものに変えた。
不規則に点いたり消えたりするために、入り口奥に広がる闇がより一層深いものに感じられる。
男は徐に腕時計を見やるとグルリと首を回し、尻ポケットから眠気覚まし用のチューインガムを取り出した。
手袋をしたまま、その包み紙を綺麗に剥がすと勢いよく口の中に放り込む。
少しの間、男は闇の黒を見据えたまま微動だにせず、ただガムを噛んでいたが突然スゥッと大きく息を吸った。
それはまるで目の前に広がる深い闇を吸い込むように深く重い呼吸だった。
その静寂の中には不釣合いな呼吸によってか、居心地が悪いと言ったように数羽のカラスが闇を破るように飛び立つ音がした。
男は最初から決めていたのかと思えるほど絶妙なタイミングで、その闇を揺さぶる音に乗って公園内へと侵入していった。
一月十日、午後十二時二十分。
僕たちはようやく学校に着いた。
その後、店内でそれぞれ好き勝手なことをしていたのだが、誠大が急に進路のことで担任に呼ばれていたことを思い出し、結局暇な僕たちは学校に行くことにしたのだった。
裏門をくぐり抜けると、校門前には既に午後からは何の予定もなく帰ろうとしている1年生たち、部活を始める生徒たちでごった返していた。
僕たちはその中を、生徒指導の教員に見つからないように体育館脇の通路から校内へと侵入する。
体育館の周りは一年中僕らの腰くらいはある雑草に囲まれており、去年校内の生徒にリンチ場所に使われ、そのあまりの薄気味悪さも手伝い立ち入り禁止になっていた。
だが、そうなったことで誠大、そして向井の好奇心を刺激したのか、彼らはことあるごとにここを抜け道に使用した。
そのため手際よく慣れたもので、ただ僕だけいつも動揺して転ぶ。
こうしてダメだと言われることをするのは好きなのだが、持ち合わせた要領の悪さと鈍さが邪魔をしていつも彼らの足を止めてしまうのだ。
その度に颯爽と向井がこちらにやってきて僕に手を貸した。
だが何故か、いつもそうして無表情で手を差し伸べる彼に感謝を覚えることはなく、頭に来て仕方がなかった。
とにかく転ばないことが先決だ、と動揺しながらも思った以上に軽々と動いてしまう身体に気を付けながらゆっくりと息を吐き、彼らに遅れを取らないように急いだ。
無事に校内へと入った僕らは、そそくさと上履きに履き替えると教室ヘと向かった。
クラスのドアを開けると普段なら全員の注目を浴びる所なのだが、今日は違った。
こんな耳障りな音にも気付かずに、クラスメイトたちは教室内に人だかりを作り騒ぎあっている。
そういったことに敏感な誠大は僕らに声を掛けることなく急に走り出し、その輪の中心に入っていった。
向井は全く何の興味もないのか、その目の前を素通りするとカバンだけを机の横にぶら下げ窓に目を向けた。
僕も無造作に机の上にカバンを乗せるとすぐに、窓際に行かないかと促すように向井を見た。
それに気付いた向井は両の瞳でがっちりと僕を捉えながら、視線は動かさずに首だけをゆっくりと縦に振った。
内心彼の返答に胃をビクつかせていた僕はほうと胸を撫で下ろした。
向井は窓際に寄ると身軽に窓の手前に備え付けられたロッカーに飛び乗り、ベランダに足を投げ出す形で腰掛けた。
僕はそんな向井の一瞬の動作に話しかけるタイミングを失ってしまい、仕方なく忍び寄るように近づくと背中合わせになるような感じにロッカーにもたれた。
沈黙がねっとりと肌を撫で上げ、先程までヘッドフォンで聞いているかのような耳を突く喧騒が嘘のように遠ざかっていく。
向井と僕との間に出来た不自然な隙間は黙れば黙るほど密度を上げ、いつか僕に刃を向けるような気にさえさせた。
どうしようと思い悩む度にドツボに嵌り、跳ね上がりそうになる心臓を押さえようと生唾を飲み込んだ。
同時に囁くように小さく、それでいてはっきりとした口調で彼は言葉を発した。
「日向は本当にお前のことを気に入っているみたいだな」
僕はまるで蛇に睨まれた蛙のように身じろぎ一つ出来ず、一瞬の緊張で気管に入った唾液が喉の奥で爆発しそうになっていた。
彼の声からは感情を掴めず、ただそれは闇のように深いだけだ。
頭の中で想像だけが膨らみ、少しでも口を開けば思い切り吐き出してしまいそうで、とにかく僕は相槌の意思表示に首を横に傾けた。
「井川は日向をどう思っているんだ」
間髪入れずに声が鳴り、僕の背中を震わす。
質問の意図が分からず、それよりも向井が今こちらを向いているのか、それとも目線はグラウンドに向けられたままなのかそればかりが気になる。
やはり返答に困って誠大に目をやった。
輪の中心に入ってきた誠大を見つけた女子の一人がそそくさと彼の脇に擦り寄り、彼の袖口を引っ張っている。
それを微妙な面持ちでやんわり外そうとしながら、さらに輪の奥へ突き進んでいく彼の姿を見て僕は答えた。
「もしかしたら僕の知っている誠大は、あいつの中で僕用に用意されたあいつなのかも……なんて考えることがあるんだ」
そう言い終えて何となく拳を鼻の下に持ってきた。
自分を客観視したい時、何故か無意識にこうしてしまう。
僕はハッキリいって動揺しまくっていた。
どうして向井の前で自分の口からそんな返答が出たのか、そしてどうして向井はそんなことを聞いてくるのかいまいち分からなかったからだ。
今まで安定していた形が向井が加わったことで目まぐるしく変わり、僕は自分が見ているものにだんだん信用が置けなくなってきているのが分かった。
向井は黙ったままで、背後から時折発される衣擦れの音が僕の心臓を殴る。
沈黙に負けて、誤魔化そうと口を開きかけた時向井は言った。
「何でそう思う」
「悪い、分からない。ほんと何となくだから」
僕は咄嗟にそう答えた。
向井は大きく息を吸うと、吐き出す息と一緒に、そうかとだけ言った。
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