第七章 プレイ 八
まだ目の前の浮浪者同然の姿の男性が向井の父親だとは到底認められそうもなかった。
だが、突然男性が伸びすぎた前髪から見開かれた眼を覗かせ、
「君、言わないでくれ。あの子は私が今こういった生活を送っていることを全く知らないんだ」
「僕のことを覚えていないんですか」
周りの目を気にしてか、音を荒げることなく空気を吐き出すように言葉が吐かれた。
男が肩で息をする度に鳴るヒューヒューという隙間風にも似た音が、僕を激しく動揺させる。誠大の真っ直ぐな目だけが僕の目に意味を持たずに映っていて、思考はついていかない。
「すまない。私は、もう、何も分からないんだ。本当にすみません」
「貴方は! 僕のことを……まあ、いいです。
それより、龍之介の奴は、貴方からの慰謝料が月を追うごとに少なくなっている理由をちゃんと理解していますよ」
男性の弱弱しい敬語が僕の足を彼らの方へ二、三歩動かしたが、突然の誠大の大声に筋肉が驚き、動きは止められた。
男性の乱れた髭に隠れた頬や口元が奇妙に歪むのが見える。
改めて見る男性の瞳は真っ赤に充血しており、こけた頬は洞窟の奥底よりも深い黒で染まっていた。
「小枝子がいったのだろうか」
「さあ。そんなことは分かりませんが。
けれど龍之介は貴方が今、どういう状況に置かれているかは既に承知のことと思いますよ」
「……以前、もし、私が君に何かをしてしまったのなら、何度でも謝ります。だから、もし龍之介に会うことがあったら、どうか伝えて欲しいのだ」
震える声が雨の中に滲む。
だが、腕を掴まれたままの男性はその声とは裏腹に、反対に誠大の腕を力強く掴み返した。
ここからでもその力の強いことが彼の白くなった指先から見て取れる。
僕が思わず顔を背けると脇を通る人の目線や、先ほどまでいた店内からこちらを見ている主婦の視線が皮膚に突き刺さる感覚を覚えた。
僕たちは駅前のロータリーを囲む歩道の真ん中で佇んでいたのだ。
「何ですか? 聞くだけなら聞きますよ」
喧騒など耳に入らない様子で誠大がいった。
いつの間にかその手は何も掴んではいなかった。
男性は一つ大きく息を吸い、それを鼻から吐き出すと
「あの子に愛していると、今も変わらず愛していると、そう伝えて欲しい。それと、私はどこへいてもお前の父親に代わりはないのだから、何かあったら頼って欲しい、と」
「僕が伝えると本当に思っているんですか?」
「分からない。だけど、君の目をみれば分かるよ。君はきっと龍之介に伝えてくれる、そう信じているよ」
誠大が小さく唇を噛むのが見える。僕には全く状況が掴めなかった。
ただ分かるのは彼らの間には確執が生じているのだろう、ということだけだ。
そして、向井家で会ったあの長身の男がいったことが本当ならば、向井の父親は現時点で無職なためにこんな浮浪者のような格好をしているのかもしれない。
潤滑油にもなれそうにないと思い、その場で彼らを見ているしか出来ない。
「あと、もう一つ」
「……何ですか」
「あの日に見たことは忘れて欲しい、と。お前なら分かってくれるはずだ、と。そう伝えてくれ。頼みます」
男性は雑駁な髪を垂らして頭を下げた。
そして一礼を終えると誠大の横をズルズルと破れた衣を引き摺りながら通り過ぎた。
彼の描く、まるでカタツムリの這い跡のような真っ直ぐな線はタールのようにどす黒い。
そしてここから見える彼らは肩や背中をより濡らしたからか、心なしか小さく見える。
誠大は慎重に息を吐きながら、まるで今にも泣き出しそうな顔でアスファルトに視線を向けた。
僕は急いで持っていた傘を開いて男性に差し出したが、彼は柔和な笑みを崩さず、首をゆっくりと振ると科学的な臭いを残して去っていった。
「向井の父親なのか? あの人が」
思わず漏れるように出た問いに「そうだ」と答えた誠大は、何故か左腕を抱えるようにして力を入れると、小さくなる向井の父親を表情のない眼で見つめた。
一月十二日、木曜日。午前四時二十九分。
男は再び闇の中で目を凝らしていた。
るで影法師が動き出したかの如く、黒く、滑らかな肢体を曝け出し、河川敷を見据えている。つい三時間ほど前まで空を覆っていた雲も徐々に晴れ出し、時折星や月がその姿を現す。
男は不定期に闇に取って代わる月の光から逃げるように黒いニット帽を目深に被り直すと、やはりポケットに入れられたままの左手を強く握った。
その度に今宵も川の音に紛れて、皮の手袋がギチギチと窮屈そうな音を立てた。
男が土手を慎重に上り終えると、その眼下には幅三メートル程の河川が広がっている。
男はそのどこまでも続く水の道に目をやると、土手を川の方へ中腹まで降り、そこに静かに腰を据えた。
砂を筒の中に入れて振ったときのような音が小さく鳴る。
男の穿いたナイロン着が擦れて音が出たのだった。
数秒動かずにじっとしながら、耳を澄ませても分からないほどに弱く、鼻から息を吐いた。
男の緊張感を投影したような肌に風がぶつかると、やがて周囲に割れるような音が鳴り出す。
ゆっくりと音の鳴った上流方向へ首を向けると、男は橋の下に二つのブルーシートを見る。対岸の橋の下にも一つ、青いビニールシートで覆われた、人一人が入れるくらいの物体が風を受けて今にも飛ばされそうになっていた。
周りはダンボールで作られているのだろう、昨日の雨で所々が歪み、変形してしまっており酷く弱弱しい。
男は首を動かさず、まるでそれが定められた儀式とでもいうように口の中に眠気覚まし用のガムを放り込んだ。
だが糖衣の割れる音がした途端、ミントの強い匂いが鼻の奥に立ち込めたのか、男は突然ポケットに入れたままだった左手の甲で口元を強く押さえた。
数秒間小刻みに、だが激しく身体を動かし、無音の咳に支配される。
男はまだ口元を押さえつけたまま、緩慢な動きで呼吸するとようやく手を離した。
そしてその握ったままの左手に目線を落とす。
男が川の流れよりも遅くその手を開くと、そこには黒いプラスチック製ハンドルの折りたたみ式ナイフが何も反射せずにどんよりと乗っていた。
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