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  Flow 作者:森カラ
第七章 プレイ 五
 向井の一人住むというマンションに行くには電車を一駅乗らねばならなかった。
いつしか霧雨は大粒の雨に変わり、僕は濡れて冷え切った身体を駆け足で駅構内へ滑り込ませた。

隣駅までの切符を買い、ホームに降りるとちょうど乗るべき電車が到着した所だった。
壁を震わす轟音に背中を押されるように電車に乗ると、先頭車両の扉にもたれるようにして立った。

平日の午前十時半という中途半端な時間帯ということもあり、電車内にはこれから出勤という様子のサラリーマンや、大学生らしい風貌の若者らが気だるい雰囲気を充満させている。
多少の息苦しさを覚えながらポケットに突っ込んだ、男から渡された紙片を広げて書かれている住所を暗唱すると、もう一度握り締めてポケットに戻した。

同時に発車のベルが劈くような音を撒き散らし、電車はゆっくりとその胴体を揺らし始める。久々の電車の揺れに早速体勢を崩された僕は反射的に扉に左手を広げて身体を支えた。

左手の親指が不自然に黒く汚れている。
ああ、紙を握りつぶしたときに付いたのだな、と僕は思った。

向井の住所は水溶性インクで殴り書きされていたのだった。
潰れた虫の死骸のようなその跡をただ見つめながら、向井の澱んだ目の色を思い出していた。

 改札を抜けるとやはり雨が本格的に降り始めていた。
濡れながら歩く勇気はなく、駅前のコンビニエンスストアで、雨の日になると途端に品数の増える透明のビニール傘を買った。

その足で駅前に掲げられた、所々錆びている地図板で大体の地理を確認し、通りに復帰した。駅前は多くの主婦で雑然としている。

駅前に建てられた唯一とも言える中規模スーパーのせいだろう。
僕は雨の叩きつける傘に顔が隠れるように俯きながら、色の付いた傘を買えばよかった、と早速後悔した。

 駅から一歩入ると、それまでの賑わいがまるで虚構だったとでもいうように、昔ながらの風景が広がっていた。
道の両脇に並んだ商店街は、よく目を凝らさなければまだ営業を続けているとは到底思えない。

まるでここだけ時間の進みが遅いみたいだった。
時折発情中の猫のような声でテレビから割れるような音が鳴る。

丸椅子の上に腰掛け、新聞を読んでいる青果店の主人と一瞬目が合ったが、売る気など初めからないのか、僕と目が合ったことを後悔するような素振りで音を立てて新聞を捲った。
ざわつく感情に何となく後ろを振り返る。

先程と変わらない主婦の井戸端会議が視界の端に映りこんだかと思うと、親の手を振り切って駆け出す子供や独りでトボトボと歩く老人が商店街の入り口を横切っていった。
音と映像だけが早送りされているように、目の前を残像を残して通り過ぎていく。

僕はとうとう堪えきれずに走り出した。
地面を蹴った衝撃で雨水が派手にジーンズにかかり、染み込んでいく茶色い汚れにやるせなくなる。

走り出すと傘は全くその役目を果たさず、雨粒は僕に向かって勢いよく飛び込んできた。
それでも僕は早くこの瞬間を駆け抜けてしまいたかった。
ただがむしゃらに足を動かし、傘を握り締め、黒く染まったアスファルトを蹴って向井の住処を目指した。

 渡されていた紙に書かれていたマンション名から勝手に想像するに、大した建物ではないのだろうと思っていた。

「マンションティファニー……すげえな」

 その安っぽいラブホテルのような名前のマンションの外観に立つと、ただ感嘆しか漏らせなかった。
全住戸数はざっと見ても三十戸未満と小規模マンションの部類に入るだろうが、こじんまりとした中の抑えられた装飾や統一された色彩がかえって高級さを醸し出していた。

さっき向井家で会った男は向井の父親があの大手企業の社長だといっていたが、金があるって凄いんだな。
僕は口を開けたまま何度もマンションを嘗めるように見回し、そう思った。

まだあの寂れた商店街から十分程度しかきていなかったが、この界隈でも一際目立つ、まだ新築物件の部類に入るだろう、このマンションを見て複雑な気持ちになった。

 向井の部屋は南向きのこのマンションの二階、東南角部屋に位置するようだ。
とりあえず共用エントランスの扉を開けてみる。

「そりゃそうだ。当たり前だ」

 思わず自嘲にも似た苦笑が漏れた。
これだけのマンションだ、オートロックなんて当たり前のことだろう。

目の前に立ちはだかる一面ガラス張りの自動ドアは案の定硬く閉ざされていた。
気を取り直して、郵便受けをざっと眺める。
向井の住んでいる二〇四号室のポストには名札さえ貼られておらず、ただその銀のフォルムが鈍く光っているだけだった。

 どうしたものか。

 僕は一旦外に出ると、再び傘を差して外の通りに出た。

当然、駐車場の方に回ってみたが、監視カメラに鍵の付いた背の高い頑丈な扉が裏口をしっかり守っている。
あまり動くのも人目に付くため、思索に耽っていると商店街の方から揺れる真っ赤な傘とピンク色の小さな幼児用の傘がこちらに向かってくるのが見えた、その時だった。

自動ドアの開く音がして、咄嗟にそちらに目をやると誠大の姿があった。
僕はあまりの驚きに呼吸をすることさえ忘れて、止まりそうな心臓を落ち着かせることで精一杯だ。

誠大はマンションの入り口まで来ると、激しい雨を落とす上空を見上げた。
僕は強張る身体を慎重に動かしながら、マンションの側面にあたる駐輪場の方へ回りこんだ。

雨で良かった。
集中する脳が咄嗟にそんなことを思わせる。

ここからはベランダ側のために不審な僕の姿は丸見えだったのだ。
もし、今日が晴れていたら洗濯物を干しに出た主婦が僕の姿を見咎めたかも知れない。
そう思うと今まで雨のせいで憂鬱になっていた心も晴れる気がした。

 誠大はそんな僕を置いて、焦点の合わぬ目のままフラフラと路上に出た。
彼の体は雨を弾くより、吸収し、よく見えなくなっていく。

やはりここにいた、とか向井はまだ部屋にいるのか、とかそういったことはほとんどどうでも良くなっていた。
ただ誠大の生気の抜けきった身体を見て、何の準備もないまま僕は彼の背後に飛び出していた。



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