第七章 プレイ 四
無表情のままの男は彼女のしたいようにさせながら、何故かジッと僕を見下ろしている。
後ずさりすることも叶わず、この空気の波を壊すことさえ僕は死に値するのではないのか、というほどの緊張が臨界点に達したとき、男は燻る雷鳴のような声を出した。
「それが龍之介の住所だ。行ってやってくれ」
すぐに紙に目を向けると書き殴られた文字が霧雨に濡れて躍りだしていた。
それを見て僕はすぐさまそれをポケットに押し込んだ。
喉まで出かかったお礼の言葉をいおうと顔を上げると、雨のよく似合うその男が笑っているように見えた。
僕と彼はお互い無表情で見つめあったまま、向井の母親の甲高いじゃれた声を聞いていた。
その沈黙にも耐えかね、僕は先に会釈をし、お礼を重ねると彼らに背を向けた。
急に視界が開けて、ようやく肺の隅々にまで酸素を送り込んだ僕は、既に遠ざかっているもう会うこともないだろう彼らの声を追っていた。
そして足早にその場を去りながら、ポケットに押し込んだままにしていた向井の住所を確認しようと取り出した瞬間、グローブをはめたままの手で肩を掴まれる感覚に落とされた。
僕が振り向くよりも早く、その轟きに似た声がもう一度僕の耳元で発された。
「君は龍之介の友達なのか?」
僕はゆっくりと頷く。
掴まれた肩が何か別の形に変えられていくような気がして微動だにできない。
先程の男は少し焦った様子で納得を見せると、肩を掴んだ手に力を籠めた。
「龍之介が一体何をしているか分かるか」
発された言葉の意味を探るより先に聞かねばならないことがあった。
僕は意を決すると、乾いて焼けるように熱くなった喉を鳴らしていった。
「あなたは、向井君とどういう関係なんですか」
男は動くことさえなかったが不自然な間を作ると、煙草の煙を吐き出すときのように深いため息をついて
「俺は、さっきの女の愛人。つまり龍之介の新しい父親候補の男だ」
「新しい?」
僕は思っても見なかった告白に素直に首を傾げた。
それをきっかけにして、ようやく男の獣のような手が肩から離れた。
ゆっくりとだが確実に男を見る。落ち着いて見ると先程よりも随分若く感じる。
三十、三十一……いや、下手をすればまだ二十代という可能性も捨てきれない。
男は逞しい身体に、まだ洗い切れていないあどけなさが張り付いていることに気づいていないような顔で、脱力しながら僕を見ていった。
「君は何も知らないのか。まあ、あの龍之介が誰かにそんなことを軽々しく言うとも思えん。
だが、君も龍之介と一度でも話したことがあるなら分かるだろう。なかなか他人を好きにならない、いや、他人という存在を理解しようとしない。
あいつは俺を非常に嫌っている」
呪文のような呟きを聞きながら、僕は実際向井になかなか慣れることの出来ない自分と、僕を誠大にするようには近づかせない向井の素振りを思い出してただ黙った。
「だからまずこれから俺が話すことを口外しないと誓ってもらいたい。もちろん龍之介を含める誰にも、という意味だ。分かるか」
僕は静かに頷いた。
男はそれを確認すると、大きな身体には到底似つかわしくない様子で小さく向井家を振り返り、続けた。
「あいつの父親は大手通信会社の社長でな、俺が今あの女とあんな良い暮らしをしていられるのもあいつの父親からとんでもない額の慰謝料が入ってくるからだ」
何といっていいか分からず相槌をうつに留める。
だが「良い暮らし」と「向井本人」がやはりどうも結びつかず少し疑問を持つ。
「さっき君に渡した住所の所へ龍之介が行くようになったのはもう随分前になる。それはちょうど俺があいつの母親を寝取った時期と重なるわけでな」
「じゃあ向井があなたを嫌う理由はそこに集中してると?」
「龍之介がそんなことに構うような奴には見えないって?」
間髪を容れず放たれた攻撃に耐えかね、僕は苦笑を浮かばせながら微かに首を縦に振った。それを見た男は鼻で笑うと、それに対する言及を避けて話を続けた。
「それより俺のことはもういいだろう。なあ、あいつは一体何を企んでいるんだ?」
男のいっている意味がよく分からず、間を稼ごうと僕は苦笑を加えて男から目線を外した。その直後、その外見からは予想が難しいほど礼儀正しい様子で話をしていた男から、当初に感じた鋭い牙がひん剥かれる音を聞いた。
「テメエ、こっちが下手にでりゃあつけあがりやがってッ! こっちのことだけ詮索してハイ、サヨウナラってか? ふざけんなよッ!」
男は突然熱い唾液を撒き散らしながら、だが声を殺して怒鳴りつけると、僕の首を凶器のような手で締め上げた。
突然の豹変と息苦しさからパニックに陥った僕は両足をバタつかせ男の脛を蹴り上げた。
膝の力が抜け、ガクリと体制を崩した男を見るも身体が強張って逃げられず、激しく咳き込みながら僕はとうとう尻餅をついた。
地面を濡らしていた雨が僕の尻に容赦なく滑り込んできて、まるでアスファルトに同化していくように僕の尻もまた黒く染まっていく。
まるで飲み込まれていくような感覚に震え、僕は頬を流れる塩気のある雨をそのままにすることしか出来ずにいた。
男は言葉を発することなく、まるで噴火山が煙を吐き出すように荒い鼻息で空中を白く染め上げている。
そして膝を擦りながら立ち上がると、軟体動物のようにへたり込んだままの僕を立ち上がらせようと再び太い腕を伸ばしてきた。
思案に暮れる間さえなく、首の皮に男の爪が食い込んだ瞬間、どこかで蚊の鳴くような音が空気の層を振るわせた。
瞬間、男はその手を反射的に引っ込めた。
震える唇を何とか歯で押さえつけて耳を澄ますと、雨の音に混ざって遠くから向井の母親の声が揺れていた。
「すみません、でも、僕は向井のことは本当に何も知らないんです」
向井家を見据えたまま動きを忘れた男に向かって、僕はゆっくりと、だがはっきりとそういった。
しかしその声は、まだ不自然な圧力の残る首筋が引き出した別人のような声だった。
詰まるような咳をしながら首元を擦る僕を見た男は、未だ胸の辺りまで突き上げていた拳を力なく落とした。
僕の情けない顔を見て冷静を取り戻したのだろうか、魂の抜けた声でいった。
「俺はあいつがどうなろうとしったこっちゃねえんだ。はっきりいって俺には邪魔な存在だ、面倒臭えから消せるもんなら消してえよ。だがな、分かるだろう? 俺は今の生活が気に入ってるんだよ」
話しながら徐々に怒りが舞い戻ってきたのか、僕を上から刺すように睨むと、充血した眼をひん剥きながら続けた。
「テメエは俺に借りがあるんだからなぁ。あいつが俺に何かし出しそうならすぐに俺に教えろ! 必ずだぞ」
足蹴にされた悔しさから「やっぱりそういうことか」と蔑みそうになったが、当然そんな言葉が喉を通り音になるはずもなく、無数の泡となって胸の奥底に落ちていった。
この男は自分の身が危険に晒されようものなら向井家の財産を根こそぎ掻っ攫って逃げ失せるだろう。
僕は上手く働かない頭でこの男の自信の裏には何かあるのだろう、と漠然と思った。
だが一方で、まだ耳奥で余韻を刻み続ける男の声は僕に向井の過去を想像させ続けていた。
誠大は一体向井をどこまで知っているのだろう。
そして、僕は、彼らの何が分かっていると思っていたんだろう。
やはり、彼らのただの暇つぶしのために僕は選ばれたのだろうか。
僕はもう彼らの友人ではないのかもしれない、いや、初めから僕は……。
男は霧吹きをかけられたようにじわりと濡れた額を袖で擦り付けるように拭くと、僕の返答を待たずに踵を返した。
男のズルズルとしたジーンズの踵がアスファルトに擦られる音が、止まっていた町の時間を動かし始めたように定期的に聞こえる。
「あなたの為じゃない。僕はこれから、自分の意思で向井のことを知りに行くんですよ」
僕は髪の迷路を通って皮膚に拡がり始めた霧雨の冷たさを受けながら、もう届かない男の背中に吹きかけるようにして呟いた。
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